■■中上健次の影響より、同じ土俵に立つということ■■
そして、青山監督が小説と映画で掘り下げていく世界と中上健次の小説の世界との繋がりも無視するわけにはいかない。『サッド ヴァケイション』の健次は、母親の千代子と再会し、復讐に駆り立てられていく。それは、中上の『枯木灘』における主人公・秋幸と実父・龍造の対立を母子のそれに置き換えた物語と見ることもできる。秋幸は腹違いの弟を、健次は種違いの弟を殺す。それでも龍造は秋幸を、千代子は健次を取り込もうとする。
「中上に影響を受けたというよりは、中上と同じ土俵に立って考えるというやり方だと思っています。中上の背景である熊野の新宮は、山を切り崩したり、木を切り出すような山と川と海ばかりの場所で、僕は、彼が土着の口承というものを、愛すると同時に批判的にとらえてもいたと解釈してます。僕の場合は、そんな口承がまったくない世界で同じことをやろうとした。北九州市は完全な近代都市で、20世紀初頭に八幡製鉄所ができて、公害を撒き散らして、山河をぼろぼろにして、やがてそれ自体が消滅して更地になった。そんな場所には、もう口伝えになにかを教えてくれる人なんか誰もいない。それでも人間たちが生きていくために巻き起こる事件には、それほど違いがない。共通しているのは、根無し草だということだと思うんですね。つまり、守るべき家とか血とかなにもないのに、それを捏造して、生きている証を他に求めるというか。そこで僕がずっとこだわっていることがあって、それは「ひとりで生きる」ということです。人はひとりで生きていくことができるのか、たぶん無理だろう。なぜなら「親」というものが存在して、なにかあれば付きまとってくる。それを断ち切ろうとしても断ち切れない。そういう堂々巡りのなかでずっと考えてきたんですけど、ここにきてかなりのところまで突き詰められたという気がしています」
■■人の流れ、物の流れ、その交差点を舞台に■■
『サッド ヴァケイション』のなかで、健次と千代子は対照的な価値観を象徴している。この映画は、中国人の密航の場面から始まる。健次は、運転代行の仕事をしている。千代子は、間宮運送の社長の妻になっている。
「要するに流通ということなんですね。それは、物の流れであると同時に人の流れでもある。今回は特に人の流れというものを作りたかった。あちこちに流れていく人々の出入りがアクションになる。健次もそうです。だからこれは、定住しようとする千代子とあくまでも流れつづける健次というふたつのあり方の対峙でもある。それが出発点になってますね。この家を継いでほしいという言い方をする千代子と、家など自分にはないと考えている健次の対立と葛藤。それは縛りなのか、優遇なのか。あるいは、葛藤しつつも、最終的には流れていかざるをえないのか。この映画は一見、動いてないようで、ロード・ムーヴィーになっている気がしてます」
健次と千代子は、定住と漂流をめぐって激しくせめぎあう。しかし、映画全体から見れば、定住と漂流の図式は必ずしも揺るぎないものではない。間宮運送という舞台のなかで、その図式は曖昧になり、崩れていくことになるからだ。
「北九州には実際にあんなネットワークがあるんです。中央で借金まみれになって逃げてきて、運送会社を転々としながら身を隠しつづける人たちが現実にいる。僕の知り合いにもそういう人がいて、借金を返済した後で再会して聞いた話が、ヒントになってます。そういう運送会社の場合、会社を持っている人は定住しているわけですが、そこで働いているのはみんな漂流者ということになる。これは北九州ばかりではなく、日本の各地で起こっていることだと思うんですけど、高度経済成長があって、それが終わって更地になって、そこにまだへばりつくように定住している人がいて、漂流者がやって来てはどこかに去っていく。昨日はあの仕事をやっていたのに、今日はもう別の仕事をやっているような人たちばかり。やがて東京のような大都市から、ワーキングプアがどんどん発生するようになるでしょう。この映画では、その前の段階というか、現実にはもっと別の進化を遂げていくのかもしれませんが、もはや定住なのか漂流なのかもわからなくなるような交差点を舞台にしようと考えていました」
■■男ひとりのモノローグから女の人と対話する映画へ■■
青山監督は、そんな舞台で繰り広げられるドラマを通して、人と人の繋がりを見つめなおそうとしているように思える。この映画に登場する漂流者たちは、健次も間宮運送の従業員たちも、他人に干渉せず、距離を置いている。しかし、千代子や冴子、梢、ユリという女たちの強さと寛容さが、その距離を崩し、新たな関係を生み出していく。そんな関係は、『Helpless』の父性に対する母性として、単純に括ってしまうことはできない。
「女優さんたちともっと話をして、もっといろいろ試行錯誤できるようになったらめちゃめちゃ面白いということを、以前、浅野くんと話していたんですね。だったら今度、女の人たちと対話する映画を作ろうとも。それは僕が自宅で、とよた真帆とやっているようなことでもあるんですが。僕の映画は『EUREKA ユリイカ』くらいまでは、ずっと男のひとり語りみたいな、モノローグの映画だった気がするんですね。でも『月の砂漠』以降、少しずつ対話する映画へと移行してきた。それで今回は、男と女も、女と女も、男と男もありで、人と人が次から次へと対話しつづけることによって、ひとつの構造物ができあがっていくような映画が作れたかなと思っています。だから確かに、父性から母性へというのとは違いますね」
『サッド ヴァケイション』の世界は、完結しているというよりは、登場人物たちの複雑な繋がりを通して、これからいかようにも広がっていく可能性を秘めた舞台となるように思える。青山監督自身は、この作品をどのように位置づけているのだろうか。
「今はまだこの作品のなかに取り込まれているので、抜け出たときに次なる流れが見えてくれば、何年後かにまたかたちにできるとは思います。ただ確かに、これで終わるというのは考えづらいですね。小説だったら忘れられると思うんですけど、映画だと、浅野くんやら、あおいやら、光石さん、斉藤陽一郎、辻香織里さん、ずっと十年前から繋がっている人たちの顔や姿が、ふと頭のなかをめぐったりしますからね。映画のなかで死んでしまえば、その人の話は終わりですが、健次も収監されただけでいずれ出てくる。それに次は『EUREKA ユリイカ』で収監された直樹という梢の兄貴も出てくるでしょう。この問題もまた非常にでかいと思う。少年犯罪やったやつが出てくるという話は、たいへん難しい題材ではありますが、やる価値はありますね」
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