イエメンのアメリカ大使館が暴徒と化したデモ隊に包囲され、米海兵隊が大使一家の救出に乗りだす。作戦は成功するが、隊員3名が犠牲となり、さらにデモ隊への銃撃によって80人を越える一般市民が死亡する。部隊を指揮したチルダーズ大佐は、交戦規定に違反した容疑で軍事裁判にかけられる。
この映画を観て、『ア・フュー・グッドメン』や『戦火の勇気』を連想する人は少なくないだろう。確かにどの映画も、戦闘の極限状態や軍隊内部で事件が起こり、その真相が究明されていく。しかしフリードキンが関心を持っているのは、他の二作品のクライマックスとなるような明々白々な真相ではない。
フリードキンはこれまで犯罪捜査や裁判といった題材を好んで取り上げ、追われる者と追う者、裁かれる者と裁く者などを分かつ境界線の危うさを描きだしてきた。社会制度がどんなに明確な一線を引こうとも、人間の本性からすればその違いはもともと紙一重であり、立場は容易に逆転し得るのだ。
また、この監督が自分の作品に、古代宗教やアフリカの美術、漢字などの異教的な要素を意識的に散りばめるのも、この危うい境界線と無縁ではない。彼は、制度で割り切れない本能や衝動が引きだされる状況や体験を、ある種の異教的な領域として表現しようとするからだ。
但し彼の近作では、設定や人物があまりにも図式的で、ダイナミズムに欠けていたことは否めない。しかしこの新作では、彼の感性が映画を非常に興味深いものにしている。
この軍事裁判の背後には陰謀がある。チルダーズ大佐はデモ隊が武装し、発砲してきたと主張する。それを証明するものは、大使館の監視カメラがとらえたデモ隊の映像しかない。ところが上層部はそのビデオを隠滅し、救出された大使にも大佐に不利になる証言を強要する。
彼らはアラブ諸国との関係悪化を恐れ、大佐をスケープゴートにしようとしているのだ。そして検察側は裁判を圧倒的に有利に進めるが、弁護側では事件の真相や裁判を越えたもうひとつのドラマが進行している。その発端は三十年前にさかのぼる。
この映画はヴェトナムの戦場から物語が始まる。チルダーズとホッジスのふたりの大尉は、ふた手に分かれて密林に潜むヴェトコンを攻略しようとする。そしてチルダーズは奇襲に成功するが、逆にホッジスの部隊は罠に落ち、全滅の危機にさらされる。
それを知ったチルダーズは、捕虜を射殺することで、敵の指揮官に退却命令を出させ、ホッジスはその罠からただひとり生還する。
それから三十年、窮地に立たされたチルダーズが弁護を依頼するのは、最近第一線を退き弁護士となったホッジス大佐なのだ。経験の浅いこの弁護士は、友情や恩義ゆえにその依頼に応じるが、彼らの関係は、異教的な領域との境界をめぐるせめぎあいのなかで確実に変化していく。
有利な証拠を探すためにイエメンを訪れたホッジスは、銃撃で負傷した市民たちの無残な姿を目の当たりにする。しかも激しい憎しみに駆られた市民たちに取り巻かれ、生命の危機すら感じる。彼のなかでは、友人が無罪だという確信すら揺らいでいく。八方塞となった彼は、自分をそんな立場に追いやった男に激しい勢いで襲いかかる。それは衝動的な殺意といっても過言ではない。
しかし無罪であることに対する疑惑が招いたこの殺意こそが、彼にチルダーズを救う弁護士としての資格を与える。そこにフリードキンならではの立場の逆転があるのだ。
検察側は、証人の切り札としてヴェトコンの指揮官だった男を召喚し、チルダーズの捕虜殺害に関する証言を引きだす。その時点で交戦規定に違反した容疑に関する有罪はほぼ確定したかのように見える。しかしヴェトナムの一件は、弁護士ホッジスにとって別な意味を持っている。それは必ずしも、チルダーズが捕虜を殺害したからこそ、いま自分が生きているということではない。 |