やがて三つの物語がひとつの事故で繋がっていることが明らかになる。闘犬をめぐるトラブルから追われる身となったオクタビオは、バレリアが運転する車に激突し、その現場に居合わせたエル・チーボは、瀕死のオクタビオの飼い犬を救う。
この映画は、それぞれの物語をリアリズムで描きながらも、あえて時間軸を操作し、この事故で主人公たちを交錯させる。しかし、時間や物語の流れにこれだけの作為を加えているにもかかわらず、それぞれの主人公のあいだに何らかの関係が生まれることはまったくない。主人公たちは、事故で交錯した相手のことなど眼中にないように、それぞれの物語のなかに戻っていく。
結局、この事故のエピソードからどんな効果が生まれるかといえば、それぞれの物語が、リアリズムとは違う次元で異様に閉塞していくということだ。たとえば、ウォン・カーウァイの映画のように、異なる物語を生きる主人公たちがすれ違うという行為からは、彼らが存在する世界が開ける。しかしこの映画の場合は、作為的な表現によって物語が閉じ、そのなかでリアリズムを発揮すればするほどに物語はさらに閉塞し、彼らが共有するはずの世界の空気は希薄になっていく。
それぞれの物語には主人公と犬をめぐって印象的なエピソードがあるにもかかわらず、物語が閉じているために、そのエピソードの波紋のようなものが他の物語に伝わっていくことはない。あるいは、それぞれの物語が、この非情で混沌としたメキシコシティーという都市とともに呼吸しているようには見えない。そして、リアリティではなく、リアリズムとかみ合わない映画的な表現が生み出す息苦しさだけが残るのだ。 |