失われるコミュニティ、地縁は再生できるのか
――『船、山にのぼる』と『コロッサル・ユース』をめぐって


船、山にのぼる/The ship rides on the mountain――――― 2007年/日本/カラー/88分/DV
コロッサル・ユース/Juventude em Marcha/ Colossal Youth 2006年/ポルトガル=フランス=スイス/カラー/155分/スタンダード/ドルビーSRD
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(初出:「Cut」2008年5月号、映画の境界線81、若干の加筆)

 

 

 『ニュータウン物語』に続く本田孝義監督の新作『船、山にのぼる』は、ダム建設にともなって生まれたアートプロジェクト「船をつくる話」を題材にしたドキュメンタリーだ。

 広島県北東部、3町にまたがる灰塚地域にダム建設計画が持ち上がったのは40数年前のこと。それから長い反対闘争を経て、ダム周辺地域の再建を目指す「灰塚アースワークプロジェクト」が動き出す。そして、このプロジェクトに招待された建築家と美術家と写真家からなるユニット・PHスタジオが計画し、地元の人々の協力を得て実現したのが、「船をつくる話」だった。

 ダムによって約200haの森林が水没し、20〜30万本の木が伐採されるという話を聞いたこのユニットは、森の引っ越しをテーマにしたプロジェクトを思いつく。水没する谷間に、伐採される木の一部を使って60m大の筏状の船を作り、それを山のてっぺんに移動させる。ダム完成後の湛水実験で水位は最高になり、それから常時満水位まで下げられる。その水位の変化を利用して、浮上した船を山のてっぺんに着地させるのだ。

 その計画は壮大だが、この映画の魅力は必ずしもスペクタクルではない。PHスタジオのプロジェクトを追うこの映画と本田監督の前作には興味深い接点がある。『ニュータウン物語』は、監督自身が育った山陽団地というニュータウンを見つめ直していくドキュメンタリーだった。そこでは、コミュニティの在り方が様々なかたちで掘り下げられていく。

 たとえば、団地とともに新設された山陽西小学校の初代校長を務めた廣畑氏は、子供たちに血縁はあっても地縁がないため、土地のなかでの繋がりを作ろうとしたと語る。そして、本田監督の同級生たちの話から、この地域では小学校を中心とした“西小祭り”がその地縁になっていたことがわかる。学校がニュータウン以前の生活にあったお宮の代わりになり、お祭りの伝統を引き継いでいたというのだ。だが、いまではもうそういう行事は行われてはいない。歴史や中心を欠いたニュータウンに、地縁となるような求心力を生み出し、維持していくのは容易なことではないのだ。

 『船、山にのぼる』では、そんな地縁をめぐって、「船をつくる話」と水没によって転居を余儀なくされた住民たちの想いが深く結びついていく。民家や農地の移転は1993年から始まり、船の本体の制作に入る2001年には、やがて水没する土地にもはや生活者の姿はない。だが、真新しい生活再建地への移転が完了したからといって、ダム闘争が終わったわけではない。住民たちは、歴史や中心のない住宅地で、どのようにコミュニティを作り上げていくのかという課題と向き合わなければならないからだ。

 これまで何代にも渡って自然とともに生きてきた人々は、「船をつくる話」から広がるワークショップを通して、自然との繋がりを確認していく。農作業から離れた男たちは、炭焼きを復活させる。別の住民たちは、水没する地域に茂る植物を使って、織物や染物を作る。

 さらに、ダムに水が入る直前に、住民にとって大きな区切りとなる作業が行われる。それは、彼らが「えみき」と呼ぶ巨大なムクの老木の引っ越しだ。住民総出で、樹齢500年にもなる老木を生活再建地の中心にある公園へと運ぶ作業は、お祭りになり、厳粛な儀式になっていく。


―船、山にのぼる―

 Fune, yama ni noboru
(2008) on IMDb


◆スタッフ◆
 
監督/編集   本田孝義
製作 ビジュアルトラックス、戸山創作所
プロデューサー 伏屋博雄
撮影 本田孝義、林憲志、濱子正
ナレーター 川野誠一
音楽 風の楽団

(配給:戸山創作所)
 
 

―コロッサル・ユース―

 Juventude Em Marcha
(2006) on IMDb


◆スタッフ◆
 
監督/脚本/撮影   ペドロ・コスタ
Pedro Costa
撮影 レオナルド・シモンイス
Leonardo Simoes
編集 ペドロ・マルケス
Pedro Marques

◆キャスト◆

    ヴェントーラ
Ventura
  ヴァンダ・ドゥアルテ
Vanda Duarte
  ベアトリズ・ドゥアルテ
Beatriz Duarte
  イザベル・カルドーゾ
Isabel Cardoso
  グスターヴォ・スンプタ
Gustavo Sumpta
  シラ・カルドーゾ
Cila Cardoso
  アルベルト・“レント”・バロス
Alberto “Lento” Barros
  アントニオ・セメド
Antonio Semedo
  パウロ・ヌネス
Paulo Nunes
(配給:シネマトリックス)
 
 


 その「えみき」は、まさに過去と現在、自然と人間を繋ぐ重要なモニュメントになっている。それでは見事に山にのぼった船はどうか。この船がこれから住民の大切な記憶を封じ込めたタイムカプセルになっていくなら、もうひとつの「えみき」になるはずだ。

 一方、ペドロ・コスタ監督の『コロッサル・ユース』には、再開発による強制的な移住という状況がある。カーボヴェルデ諸島出身のアフリカ系移民が多く住むリスボン郊外のフォンタイーニャス地区。『ヴァンダの部屋』では、ヴァンダが暮らすこのスラム街の取り壊しが進められていた。この映画では、スラム街はすでにほとんど消失し、住人たちは真新しい集合住宅に強制的に移住させられている。

 物語は、スラム街に34年間暮らしてきたヴェントゥーラが、突然、妻に見放されるところから始まる。居場所を失った彼は、わずかに残るスラム街と集合住宅の間を行き来しつつ、自分の子供たちだと信じるヴァンダや若い住民たちを訪ね歩き、対話を重ねていく。

 失われたスラム街には、積み重ねられた時間があり、開放性があり、地縁があり、コミュニティがあった。これに対して、集合住宅は、外観や内装が白で統一され、明るく清潔には見えるが、その作りは安っぽく、画一的で、病棟や刑務所のような空間を思わせるところがある。ヴェントゥーラが、そんな住宅に押し込まれた人々を訪ね歩き、血の繋がりに関わりなく家族のように接していくことは、崩壊したコミュニティの再生を意味しているようにも見える。

 しかし、この映画の時間や物語の流れはそれほど単純ではない。これまで以上にドキュメンタリーとフィクションが複雑に入り組んでいるのだ。コスタは、ヴェントゥーラと確かな信頼関係を築き上げ、彼の過去から作品のヒントを得ている。たとえばそれは、ヴェントゥーラが、リスボンに身寄りもないのに単身でやってきて、フォンタイーニャス地区に最初に家を建てた人々のうちのひとりになったという事実だ。そんな彼は、地縁もない世界で、ゼロから家族やコミュニティを築き上げなければならなかった。

 コスタはこの映画で、リスボンにやってきた頃のヴェントゥーラとフォンタイーニャス地区を追われ、集合住宅への移住を迫られるヴェントゥーラを巧妙に重ね合わせていく。映画の導入部で彼が妻に見放されるのも、彼をもう一度ひとりにするための策略だ。さらに、妻に宛てた手紙をめぐるエピソードも、過去と現在の境界を曖昧にする。この映画は、そんなふうにして過去と現在ばかりか、生と死の境界すら消し去って、孤立した人々を繋いでいく。それは、映画が生み出す地縁というべきなのかもしれない。


(upload:2009/06/05)
 
 
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