そして、監督自身の年齢はバートンよりも上だが、テリー・ツワイゴフの『ゴーストワールド』やマイケル・ムーアの『ボウリング・フォー・コロンバイン』などからは、第三世代の世界が見えてくる。『ゴーストワールド』のヒロインは、サバービアの画一性から排除された周縁文化に想像力をかき立てられるが、自分の居場所を失い、あり得ないはずの外部へと旅立っていく。『ボウリング〜』の少年たちは、想像力すら蝕まれ、凶行に走る。
こうしたアメリカ映画に対して、本田孝義監督の『ニュータウン物語』は、ニュータウンを批判的にとらえるのではなく、そこに暮らす人々の声に耳を傾け、自分が育った世界を見直していくドキュメンタリーだが、その作業からはやはり世代が浮かび上がってくる。山陽団地では、本田監督の両親の世代が第一世代、本田監督とかつての同級生たちが第二世代、そして、自転車の練習をする門将平くんが第三世代を代表している。
その世代をめぐってまず印象的なのが、山陽西小学校の初代校長だった廣畑さんの話だ。彼は、子供たちに血縁はあっても地縁がないため、土地のなかでの繋がりを作ろうとしたと語る。サバービアやニュータウンには伝統も中心になるものもないため、住人を繋ぐものがないと家族は孤立していく。本田監督の同級生たちの話から、この地域では“西小祭り”がその地縁になっていたことがわかる。石田さんによれば、学校がニュータウン以前の生活にあったお宮の代わりになり、お祭りの伝統を引き継いでいたのだ。しかし、いまではもうそういう行事はできないという。地域をひとつにするような求心力を生みだすのは容易なことではないのだ。
ところで、本田監督には、自分が育ったニュータウンに対してわだかまりがある。映画のなかで明らかにされるように、彼の家族がそこでばらばらになってしまったからだ。その複雑な気持ちは、同じ第二世代であるスピルバーグやバートンの屈折感に通じるものがある。そんな監督が企画する「ニュータウン アートタウン」展は、中心を欠いたニュータウンにアーティストたちの外部からの視点を持ち込むことによって、そこに磁場を生み出そうとする試みだといってもよいだろう。
山陽団地に集結したアーティストたちのインスタレーションには、ニュータウン全般の未来について考えるヒントが散りばめられている。そのなかでもイメージを対比してみると興味深いのが、山陽団地の神話を創作し、団地のなかにある古墳に配置された中村智道の超電撃紙芝居「山陽神話」と、鷹取雅一が部屋を丸めたティッシュで覆い尽くした空間だ。前者は、地域が共有する歴史や物語を強調するのに対して、後者には歴史も物語もなく、その閉ざされた世界には、先述したアメリカ映画の第三世代に通じる空気が漂っている。そこには対照的な未来が垣間見えるが、いずれにしてもあなたはこの映画を観ることによって、自分が暮らす世界に確実に跳ね返ってくるであろう“ニュータウン物語”という物語をすでに共有しているのだ。 |