さらに、ダレールに影響を及ぼしているケベックの文化や歴史にも注目する必要がある。筆者が「“モザイク”と呼ばれるカナダの多文化主義の独自性と功罪」で書いたように、カナダは英語とフランス語の二言語併用主義と多文化主義を世界に先駆けて政策として導入した。ケベックでフランス語系として育ったロメールは、ずっとフランス語系と英語系というふたつの社会を往復してきた。
「地域の住人は二つの教区に分かれており、一つはフランス語系のカトリック、もう一つは英語系あるいは英語を選択した移民のプロテスタントであり、それぞれ別の学校、教会、クラブに行った。人びとは自分たちのやり方にこだわりがちだった。私たちはフランス語系の教区に住んでカトリックを信仰していたが、母は英語が堪能であったためか、英語を話す人びとといるほうが寛ぐことができた――英語を話す人びととは彼女と同じように新しくやって来たカナダ人だったのである」
「学校で私は、教師たちが先頭にたつ大きな運動「正しいフランス語」に加わった。それはフランス語の尊重、さらには崇拝を強調するものであり、フランス語に忍び寄りつつある英語化に対する攻撃であった。私の世代は、カナダの内部でのフランス語系カナダ人少数派の権利に対する平等な承認を求めることに、自信をもつと同時に情熱を傾けた」
ダレールのそんな経験は、ルワンダにおける任務のなかで彼を特別な立場に立たせることになる。
「言語は深刻な問題だった。RPF代表団の大部分は英語圏のウガンダで育ったルワンダ難民から構成されているのでほとんど英語を使い、ルワンダ政府の代表者たちはフランス語しか使わない」
その結果、ダレールは公式通訳のような役割も果たすことになる。そういう意味では、彼は、カナダから派遣された司令官として、ルワンダでも積極的な役割を果たそうとしたといえるし、そういう姿勢があったからこそ本書が非常に密度の濃いものになったともいえる。
■周到に準備されたフツ族強硬派の計画
ルワンダでは、疲弊した国を再生させるために、以下のような行程が想定されていた。
「基本的に協定は、てきぱきとした、二二ヶ月間にわたる行程表を設定しており、RPFと前の政権政党である「発展のための革命的国家運動」(MRND党)を含めたさまざまな党派が、まず広範な支持基盤をもつ移行政府(BBTG)を作ることになっていた。その後で、この国は何段階もへて自由かつ民主的な多民族による選挙へと進む。その過程で、移行政府はなんとか難民とRPFを統合し、双方の軍を解散して新しい国軍を作り出し、憲法を再起草し、文民警察を復活させ、破綻した経済を再建するために、世界中の財政機関と援助団体に支援を求める。それらは、世界のあらゆる国の複雑な問題に資金を投じるために必要があるのだ。この過程はすべて、協定の諸段階の実施を支援する、中立的な国際部隊を即座に配置できるかどうかにかかっている」 |