家族を描いたアメリカ映画は多々あるが、スコット・マクギーとデヴィッド・シーゲルのコンビが監督した『綴り字のシーズン』は、そのなかでも間違いなく異彩を放つことだろう。筆者は、マイラ・ゴールドバーグの原作を、映画化されるとも知らずに、だいぶ前に読んでいたのだが、この映画を観て正直、驚かされた。
原作には、ナウマン家の4人の主人公をめぐる様々なエピソードや彼らの内なる思いが、かなりこと細かく綴られていた。だがこの映画は、家族に生じる軋みや亀裂、それぞれの心の動きを、具体的なエピソードや言葉ではなく、独自の象徴的な映像で見事に表現していた。これは、簡単にできることではないし、それ以前に、アメリカ映画であれば、家族という日常的な題材に対して、そういう表現を試みようともしないだろう。
しかし、この作品の監督が、マクギーとシーゲルのコンビであれば、それも頷ける。彼らは、この『綴り字のシーズン』以前に、2本の長編を監督している。それはどちらも、フィルム・ノワールやサスペンス・スリラーといったジャンルに属する作品であり、一見したところでは、この新作とは繋がりがないように見える。だが実は彼らは、ジャンルとは異なる次元で、共通する表現を試み、共通するテーマを扱っているのだ。
このコンビのデビュー作『Suture』(93)は、異色のフィルム・ノワールだ。主人公は、クレイとヴィンセントという瓜二つの異母兄弟。彼らは、殺害された父親の葬式で初めて顔を合わせる。ヴィンセントは、クレイを罠にはめて、自分が死んだように偽装しようとする。ところがそのクレイは、生き延びる。重傷を負ったうえ、記憶まで失った彼は、周囲からヴィンセントとみなされる。それは、遺産目当てに父親を殺害した疑いを掛けられることをも意味していた。
それだけなら必ずしも珍しい話ではないが、このドラマにはとんでもないひねりが加えられている。クレイを黒人の俳優が、ヴィンセントを白人の俳優が演じているのだ。だから、観客にはまったく違う人間にしか見えない。だが、ドラマのなかでは最後まで瓜二つの人間として扱われる。この監督コンビは、そんな表層と内面のギャップを通して、アイデンティティとは何かを問いかけているのだ。
彼らにとって2作目となる『ディープ・エンド』(01)でも、まったく異なる状況から、表層と内面のギャップが浮かび上がってくる。ヒロインのマーガレットは、風光明媚な湖畔に立つ家に、夫と3人の子供たち、舅とともに暮らしている。彼女の一番の悩みは、大学進学を控えた長男のボーが、いかがわしいバーを経営する男ダービーと付き合っていることだ。
そんな彼女はある朝、自宅の桟橋の下で、そのダービーの死体を発見する。彼の胸にはボートの錨が刺さっていた。実はその前夜、ダービーはボーと密かに会い、喧嘩別れしたあと、自分で足をすべらせて死亡したのだが、ボーの顔の傷を思い出したマーガレットは、息子を守るために奔走する。ところがそんな彼女の前に、ダービーとボーのあられもない姿を録画したビデオを持つ男アレックが現れ、5万ドルを要求する。
これもまたありそうな話だが、その先に意外な展開が待ち受けている。映画は、マーガレットが見せるふたつの異なる表情を浮き彫りにしていく。海軍将校の夫は不在で、彼女は子供たちと舅の面倒、主婦業に日々忙殺されている。深刻なトラブルに巻き込まれていても、その営みを中断することはできない。だが一方では、家族の目の届かないところで、なりふりかまわず必死に金をかき集める。彼女を脅迫するアレックは、家族も知らないそんな彼女の姿に次第に心を動かされていく。
家族とアレックの立場は、そんな展開のなかで逆転していくことになる。家族は、マーガレットの表層しか見ていない。ボーは、母親が浮気をしているのではないかと疑う。舅は、彼女が思いつめた表情でお金の相談を持ちかけても、その深刻さを察することができず、財布から80ドルを差し出す。一方、アレックは、どんな手段を使っても金を搾り取ろうとする彼の相棒から、必死に彼女を守ろうとする。この映画では、湖、水槽、飲料水のタンク、蛇口の水滴など、水が印象的に描かれるが、それは、彼女が溺れかけていることを暗示しているだけではなく、目に見えるかたちとかたちにならないものの違いを強調していると考えるべきだろう。
そして、監督コンビのこうしたヴィジョンを踏まえてみるなら、『綴り字のシーズン』で彼らが関心を持っているのが、必ずしもユダヤ教神秘主義の難解で深遠な世界そのものではないことがおわかりいただけるだろう。この映画の導入部では、ナウマン一家の明確な家族のかたちが浮かび上がってくる。彼らの精神的な支柱になっているのは、もちろん父親のソールだ。母親のミリアムは、彼が語る"ティクン・オラム(世界の復元)"という考え方を心の支えに、過去のトラウマを乗り越えようとし、兄のアーロンは、ヘブライ語を学ぶことで、父親のように神に近づこうとしてきた。
しかし、イライザが隠れた才能を発揮し出すことによって、この家族のかたちは微妙に揺らぎ出す。ユダヤ教神秘主義の秘儀を極めることができなかったソールは、彼女ならそれが会得できると確信し、彼女を通して自分の夢を叶えようとする。彼は、研究から私生活まで完璧を求めてきたが、そんな彼でさえ実は決して完璧な人間ではなかった。しかし彼は、不完全な自己を受け入れず、理論で防禦し、結果的に家族を支配してきた。それはまさに、形骸化した家族のかたちだといえる。
これまでそんなソールの理論を信じてきたミリアムとアーロンは、精神的な支えを失い、それぞれに自分の道を歩み出す。ふたりは、ソールとイライザがコンテストのために家を留守にしている間に、それぞれに新たな扉を開く。ミリアムにとって、他人の家に侵入することは、これまでとは意味が違う。"ティクン・オラム"はもはやソールの理論ではなく、彼女だけのものだ。アーロンは、チャーリとハレ・クリシュナという異教に、かたちではなく、自分が心から信じられるものを見出そうとする。しかし、彼らは、まだかたちから本当に解放されているわけではない。なぜなら、ソールが、イライザに託してまで神秘主義の秘儀を求めるように、ミリアムは世界が復元されたことを告げる光を求め、アーロンは神に近づくことを求めているからだ。
そして、そんな家族に救いの手を差し延べるのが、イライザだ。彼女は全米大会で、神とひとつになることよりも、不完全な人間であることを選ぶ。そうすることによって、お互いが不完全であることを受け入れることこそが復元なのだと、家族に身をもって示す。それが、形骸化した家族のかたちから本当に自由になることなのだ。
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