ブリュノ・デュモンがこれまで監督してきた『ジーザスの日々』(97)、『ユマニテ』(99)、『Twentynine Palms』(03)には、快楽をむさぼるセックスがあり、レイプがあり、殺人があった。彼は、同じモチーフを様々に変形することによって、自分の世界を構築していく。
そのモチーフは、新作の『フランドル』(06)でも変わらない。少女バルブは、男たちを次々に受け入れていく。戦場に旅立ったデメステルと彼の仲間たちは、まだ幼さの残る少年も殺し、女兵士を集団でレイプする。
「そうです、セザンヌは、サント・ヴィクトワール山を50回も画いています。私がやっていることを説明するには、絵画の比喩を使うのが一番いい方法だと思います。私にとって絵画は、映画に関するメディテーションを行う特権的な場所なのです」
では、なぜデュモンの場合には、このモチーフなのだろうか。
「愛に関わってくるものが、そこに現われてくるからではないでしょうか。愛のメカニズムのなかには欲望があり、レイプも暴力もその欲望が変形したものです。暴力は、欲望の根本的な成り立ちのなかで、その最も過激なかたちということができるでしょう。だから戦争も、愛と分かち難く結びついているのです」
さらに、デュモンの作品において、もうひとつ重要な位置を占めているのが、作品の舞台だ。これまで自分が育ったフランドル地方を拠点にしてきた彼は、前作で舞台をアメリカに移し、新作で再びフランドルに戻ってきた。そんな彼は、アメリカとフランドルで撮影することの違いを、このように語る。
「(『フランドル』の世界は)アメリカと対置されるような田舎であって、とても特殊な部分があります。私は、そうした特殊なフランドルを通じて、普遍的なものに到達しようと試みているわけです。これに対して、アメリカはすでに普遍的です。アメリカでひとつのショットを撮ると、もうそのことだけで、私はひとつの普遍的なモデルのなかに取り込まれてしまいます」
しかし、デュモンは、普遍的なアメリカに取り込まれたまま、手をこまねいているわけではない。
「アメリカは、現代人が持つイマジネーションのモデルになっています。そのモデルこそ、私たちがテロ行為を加えて、革命を起こし、メディテーションへと引き込むべき対象ではないかと思うのです。なぜなら、アメリカというモデルによって形作られるイマジネーションは、私たちを疎外するからです。私は、芸術家はテロリストだと思います」
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