ブリュノ・デュモン・インタビュー 02
Interview with Bruno Dumont 02


2007年
フランドル/Flandres――2005年/フランス/カラー/91分/シネスコ/ドルビーSRD
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(初出:「キネマ旬報」2007年5月上旬号)

人間の内側をとらえようとする絶望的な試み
――『フランドル』(2005)

 ブリュノ・デュモンがこれまで監督してきた『ジーザスの日々』(97)、『ユマニテ』(99)、『Twentynine Palms』(03)には、快楽をむさぼるセックスがあり、レイプがあり、殺人があった。彼は、同じモチーフを様々に変形することによって、自分の世界を構築していく。

 そのモチーフは、新作の『フランドル』(06)でも変わらない。少女バルブは、男たちを次々に受け入れていく。戦場に旅立ったデメステルと彼の仲間たちは、まだ幼さの残る少年も殺し、女兵士を集団でレイプする。

「そうです、セザンヌは、サント・ヴィクトワール山を50回も画いています。私がやっていることを説明するには、絵画の比喩を使うのが一番いい方法だと思います。私にとって絵画は、映画に関するメディテーションを行う特権的な場所なのです」

 では、なぜデュモンの場合には、このモチーフなのだろうか。

「愛に関わってくるものが、そこに現われてくるからではないでしょうか。愛のメカニズムのなかには欲望があり、レイプも暴力もその欲望が変形したものです。暴力は、欲望の根本的な成り立ちのなかで、その最も過激なかたちということができるでしょう。だから戦争も、愛と分かち難く結びついているのです」

 さらに、デュモンの作品において、もうひとつ重要な位置を占めているのが、作品の舞台だ。これまで自分が育ったフランドル地方を拠点にしてきた彼は、前作で舞台をアメリカに移し、新作で再びフランドルに戻ってきた。そんな彼は、アメリカとフランドルで撮影することの違いを、このように語る。

「(『フランドル』の世界は)アメリカと対置されるような田舎であって、とても特殊な部分があります。私は、そうした特殊なフランドルを通じて、普遍的なものに到達しようと試みているわけです。これに対して、アメリカはすでに普遍的です。アメリカでひとつのショットを撮ると、もうそのことだけで、私はひとつの普遍的なモデルのなかに取り込まれてしまいます」

 しかし、デュモンは、普遍的なアメリカに取り込まれたまま、手をこまねいているわけではない。

「アメリカは、現代人が持つイマジネーションのモデルになっています。そのモデルこそ、私たちがテロ行為を加えて、革命を起こし、メディテーションへと引き込むべき対象ではないかと思うのです。なぜなら、アメリカというモデルによって形作られるイマジネーションは、私たちを疎外するからです。私は、芸術家はテロリストだと思います」


◆プロフィール◆
ブリュノ・デュモン
1958年3月14日、フランス北部バイユールに生まれる。哲学を学び、映画を志すが食を得られず、哲学教師、広告業界、ジャーナリストというまったく異なる分野の職業を転々とする。その後民間のテレビ局に身を置き、80年代の終り頃から、産業映画や教育映画などを撮り始める。約10年間で40本もの作品を撮り、脚本の書き方や撮影、演出、編集など、映画の表現方法を学ぶ。
長編第一作として書き上げた『ジーザスの日々』がプロデューサーの目に留まり、また産業映画で見せた圧倒的な感情表現の力量を買われ、商業映画デビューを果たす。この作品で97年カンヌ国際映画祭のカメラドール特別賞(新人賞)を受賞、さらにジャン・ヴィゴ賞、アヴィニョン、シカゴなどの国際映画祭でも多数の賞を受賞し、一躍脚光を浴びる。さらに続く第二作『ユマニテ』では、99年カンヌ国際映画祭グランプリ、主演男優賞、主演女優賞の三冠に輝き、その名を世界に轟かせる。
第三作「Twentynine Palms」(日本未公開)は初めてアメリカで撮影されるものの、そのテーマはデュモンが追いかけてきたものと寸分違わない。常に素人を起用し、その存在感を引き出していく卓抜した演出力、性や殺人、キリスト教的な主題に真正面から立ち向かい、人間の精神の有り様を見つめていく圧倒的な映像世界は、時に賛否両論を巻き起こしながらも、その世界観はかつてない衝撃とともに受け止められている。
(『フランドル』プレスより引用)
 

 


 実際、前作『Twentynine Palms』の主人公たちは、他のデュモン作品のように普遍的なものに到達するのではなく、アメリカに揺さぶりをかけるかのように、凄惨を極める状況を生み出していく。そして、そんなアメリカ体験を踏まえてみると、彼が新作にフランドル≠ニいうタイトルを付けたことも興味深く思えてくる。

「それは、まさに人間の魂を示唆する力を呼び覚ますためです。フランドル地方と私の間には神秘的ともいえる関係があります。たとえば、デメステルの内面を描くには、その外部にある草地を見せるしかありません。私自身も可視のなかに閉じ込められている。しかし、その可視のものを通してしか、不可視のものをとらえることはできない。そういう逆説があります。私はいつも自分が理解できないものをとらえようとして、時にはカメラを憎むことすらあります。それでもカメラを長く回し、人間の現象をとらえていくことによって、現実を越えた向こう側に行けるのではないかと思っています。デメステルとバルブがセックスするシーンを撮影する時、私は愛の神秘のなかに入り込もうとしている。この映画のリズムや音やフレーミングやカメラの動き、そうしたすべてのものは、人間の内側をとらえようとする絶望的な試みなのです」


(upload:2009/01/31)
 
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