フランドル
Flandres


2005年/フランス/カラー/91分/シネスコ/ドルビーSRD
line
(初出:『フランドル』劇場用パンフレット)

アメリカとフランドル、ふたつの普遍性

 ブリュノ・デュモンの長編第1作『ジーザスの日々』では、退屈な日々のなかで暇を持て余す少年フレディが、自分の部屋や人気のない野原で、恋人のマリーとセックスにふけり、快楽をむさぼる。自分自身を思うようにコントロールできない彼は、少女に対するレイプ騒動を引き起こし、ついにはマリーに付きまとうアラブ系の少年を殺害してしまう。

 第2作『ユマニテ』では、警部補のファラオンが、少女のあまりにも痛ましいレイプ殺人事件の捜査にあたる。彼は、近所に住むドミノに好意を持っている。そのドミノには、ジョゼフという恋人がいるが、彼女はファラオンのことも気にかけているため、3人はしばしば行動をともにする。そして、ファラオンが偶然、ふたりの激しいセックスを目の当たりにしてしまうようなことも起こる。

 劇場未公開の第3作「Twentynine Palms」では、アメリカ人のデヴィッドとフランス語を話すロシア人の恋人カティアが、南カリフォルニアを車で旅する。ふたりは、言葉の壁を消し去ろうとするように、モーテルの部屋やプールでお互いを求め、快楽をむさぼる。しかし、砂漠地帯を行く彼らの前に突然、謎の男たちが現われ、レイプの悪夢が彼らを襲う。そして、旅路の果てに殺人が起こる。

 デュモンの作品には、セックスがあり、暴力とレイプがあり、殺人がある。彼は、画家のように、同じモチーフを様々に変形していくことによって、人間をより深く掘り下げようとする。さらに、このモチーフについては、デュモンが自分の表現を「物質主義的な探求」と語っていることにも注目しておくべきだろう。

 彼の作品の登場人物たちは、映画のなかにまず何よりも肉体という物質として存在している。彼が取り上げるモチーフは、肉体がある限り避けられない主題を内包している。彼はそんなモチーフを通して、衝動や欲望に駆り立てられていく孤独な肉体を映像に刻み込む。そしてどこまでも肉体を見つめ、物質を超越する瞬間が訪れるとき、愛や罪の意識や赦しといった内的な世界が開かれるのだ。

 そんなデュモンのモチーフは、新作の『フランドル』にも引き継がれている。少女バルブは、彼女を取巻く男たちを次々と受け入れていく。戦場へと旅立ったデメステルやブロンデルは、まだ幼さの残る少年も殺害し、捕えた女兵士を集団でレイプする。しかし、そのモチーフから広がる映像表現は、デュモンの感性がさらに研ぎ澄まされ、新たな段階へと踏み出していることを物語る。

 『フランドル』におけるデュモンのアプローチを明確にするためには、デビュー作からの作品の流れを振り返っておく必要がある。まず注目しなければならないのは、作品の舞台だ。デュモンは、『ジーザスの日々』と『ユマニテ』を、彼が育ったフランドル地方で撮影したあと、「Twentynine Palms」ではアメリカに舞台を移し、『フランドル』で再びフランドルに戻ってきた。彼が、前作をアメリカで撮影したことは、重要な意味を持っているように思える。


◆スタッフ◆
 
監督/脚本   ブリュノ・デュモン
Bruno Dumont
製作総指揮 ジャン・ブレア、ラシッド・ブシャレブ
Jean Brehat, Rachid Bouchareb
撮影監督 イヴ・カペ
Yves Cape
編集 ギー・ルコルヌ
Guy Lecorne
音楽 フィリップ・ルクール
Philippe Lecoeur
 
◆キャスト◆
 
バルブ   アドレイド・ルルー
Adelaide Leroux
デメステル サミュエル・ボワダン
Samuel Boidin
ブロンデル アンリ・クレテル
Henri Cretel
ブリッシュ ジャン=マリ・ブルヴァール
Jean-Marie Bruveart
ルクレルク ダヴィッド・プーラン
David Poulain
モルダク パトリス・ルヴァン
Patrice Levant
中尉 ダヴィッド・ルゲ
David Legay
フランス インジュ・デカエステカー
Inge Decaesteker
-
(配給:アルバトロス・フィルム)
 

 先日、フランス映画祭で来日したデュモンにインタビューしたとき、彼は、アメリカとフランドルで撮影することの違いを、以下のように語っていた。「(『フランドル』の世界は)アメリカと対置されるような田舎であって、とても特殊な部分があります。私は、そうした特殊なフランドルを通じて、普遍的なものに到達しようと試みているわけです。これに対して、アメリカはすでに普遍的です。アメリカでひとつのショットを撮ると、もうそのことだけで、私はひとつの普遍的なモデルのなかに取り込まれてしまいます」。さらに、彼は、アメリカについて、このようにも語っていた。「そうしたアメリカのイメージに対して、攻撃を加えなければなりません。なぜならば、そういうイメージによって形作られるイマジネーションは、われわれを疎外するからなのです」

 つまり、舞台がアメリカかフランドルかで、デュモンが目指す方向性はまったく違ったものになる。実際、「Twentynine Palms」の主人公たちは、他の作品のように普遍的なものに至るのではなく、アメリカに揺さぶりをかけるかのように、凄惨を極める状況を生み出していく。そして、そんなアメリカ体験を経て作り上げられた『フランドル』では、デュモンが求める普遍的なものが、より広い視野を獲得し、普遍的なアメリカに対抗するように、鮮明に描き出されている。フランドルと戦場を舞台にしたこの映画の構成は、これまで以上に主人公たちをストーリーの枠組みから自由にすると同時に、彼らと風景をいっそう密接に結びつけていく。

 戦場とフランドルという異なる状況にあっても、デメステルとバルブの世界や体験は、呼応している。デメステルとその仲間たちは、砂漠地帯の戦場のなかで、指揮官に統率され、戦闘を繰り広げていく。しかし、その指揮官が地雷で吹き飛ばされると、集団は次第に結束を失い、残忍な暴力行為がエスカレートしていく。そして最後には、ゲリラに拘束され、デメステルは、死の瀬戸際まで追い詰められる。

 一方、バルブは、雪に覆われた風景のなかで、孤独をかみしめているが、顔見知りの男が言い寄ってきても、相手にしようとはしない。しかし、やがて雪が解け、春が訪れるころには、彼女は孤独に蝕まれ、男を受け入れる。そしてついには、精神病院に収容され、妊娠を呪うかのように自分を追い詰めてしまう。

 そんなふたつの世界の繋がりは、デメステルが故郷に戻ってから、さらに大きな意味を持つ。この映画では、レイプや殺人というモチーフがあっても、『ジーザスの日々』や『ユマニテ』とは違い、デメステルが逮捕されることはない。ということは、彼とバルブは映画の導入部と同じように風景のなかにあり、その未来は完全に彼らに委ねられている。デメステルが自分の体験を胸に納めてしまえば、快楽だけをむさぼる孤独な肉体として生きていくこともできる。実際、彼は、以前と同じようにバルブとセックスし、彼女をふしだらな女とみなしている。しかし、そのバルブから、肉体ではなく、深い哀しみと痛みを感じ取るとき、彼は、罪の意識と愛に目覚めるのだ。


(upload:2009/01/31)
 
《関連リンク》
ブリュノ・デュモン・インタビュー01:『ジーザスの日々』『ユマニテ』 ■
ブリュノ・デュモン・インタビュー02:『フランドル』 ■

 
amazon.co.jpへ●
 
ご意見はこちらへ master@crisscross.jp