ブリュノ・デュモンの長編第1作『ジーザスの日々』では、退屈な日々のなかで暇を持て余す少年フレディが、自分の部屋や人気のない野原で、恋人のマリーとセックスにふけり、快楽をむさぼる。自分自身を思うようにコントロールできない彼は、少女に対するレイプ騒動を引き起こし、ついにはマリーに付きまとうアラブ系の少年を殺害してしまう。
第2作『ユマニテ』では、警部補のファラオンが、少女のあまりにも痛ましいレイプ殺人事件の捜査にあたる。彼は、近所に住むドミノに好意を持っている。そのドミノには、ジョゼフという恋人がいるが、彼女はファラオンのことも気にかけているため、3人はしばしば行動をともにする。そして、ファラオンが偶然、ふたりの激しいセックスを目の当たりにしてしまうようなことも起こる。
劇場未公開の第3作「Twentynine Palms」では、アメリカ人のデヴィッドとフランス語を話すロシア人の恋人カティアが、南カリフォルニアを車で旅する。ふたりは、言葉の壁を消し去ろうとするように、モーテルの部屋やプールでお互いを求め、快楽をむさぼる。しかし、砂漠地帯を行く彼らの前に突然、謎の男たちが現われ、レイプの悪夢が彼らを襲う。そして、旅路の果てに殺人が起こる。
デュモンの作品には、セックスがあり、暴力とレイプがあり、殺人がある。彼は、画家のように、同じモチーフを様々に変形していくことによって、人間をより深く掘り下げようとする。さらに、このモチーフについては、デュモンが自分の表現を「物質主義的な探求」と語っていることにも注目しておくべきだろう。
彼の作品の登場人物たちは、映画のなかにまず何よりも肉体という物質として存在している。彼が取り上げるモチーフは、肉体がある限り避けられない主題を内包している。彼はそんなモチーフを通して、衝動や欲望に駆り立てられていく孤独な肉体を映像に刻み込む。そしてどこまでも肉体を見つめ、物質を超越する瞬間が訪れるとき、愛や罪の意識や赦しといった内的な世界が開かれるのだ。
そんなデュモンのモチーフは、新作の『フランドル』にも引き継がれている。少女バルブは、彼女を取巻く男たちを次々と受け入れていく。戦場へと旅立ったデメステルやブロンデルは、まだ幼さの残る少年も殺害し、捕えた女兵士を集団でレイプする。しかし、そのモチーフから広がる映像表現は、デュモンの感性がさらに研ぎ澄まされ、新たな段階へと踏み出していることを物語る。
『フランドル』におけるデュモンのアプローチを明確にするためには、デビュー作からの作品の流れを振り返っておく必要がある。まず注目しなければならないのは、作品の舞台だ。デュモンは、『ジーザスの日々』と『ユマニテ』を、彼が育ったフランドル地方で撮影したあと、「Twentynine Palms」ではアメリカに舞台を移し、『フランドル』で再びフランドルに戻ってきた。彼が、前作をアメリカで撮影したことは、重要な意味を持っているように思える。 |