長編デビュー作『ジーザスの日々』が、カンヌ映画祭のカメラドール特別賞を皮切りに各国の映画祭で次々と賞を受賞し、第2作の『ユマニテ』では、カンヌ映画祭の審査員グランプリ、主演男優賞、主演女優賞の三冠に輝いたフランスの新鋭ブリュノ・デュモン。
彼が生まれ育ったフランドル地方を舞台にした2本の映画で、まず印象に残るのは、田舎町の牧歌的な風景と、少女の無残な死体や衝動的なセックスといった剥き出しの死や性の極端なコントラストである。
『ジーザスの日々』では、鬱屈した日々を送る少年が殺人に至り、『ユマニテ』では、警部補が少女の殺人事件の捜査を進めるというように、それぞれの映画には物語の流れがあるにはある。しかし、デュモンはドラマ的な演出や人物の表情を排除し、そのために物語の流れよりもこの極端なコントラストが際立つことになる。
「映画というのはカット自体が意味を持つのではなくて、カットとカットの関係から意味が生じます。ですから私はなるべくニュートラルな演技を求めます。そのカットを編集して初めてそこに意味が生じます。たとえば俳優が無関心な表情をしたとしても、その人と向かい合う人物をその前のカットに置く、あるいはその人物に投げかけられる視線を置くことによって編集で意味を出現させることができます。私は過剰な演技、はっきりと意味が読み取れるような見え見えの演技が嫌いです。私が好むのはむしろ断絶や破綻であって、俳優の表情が無関心でもかまいません。極端に言えば演技は必要ありません。そこにあるのは非演技、演技の不在です」
デュモン独自の表現は、映画から響く音にも現れている。2本の映画では、鳥のさえずりや風の音と、若者たちが乗り回すバイクのエンジン音、新幹線やジェット機が空気を切り裂く音が極端なコントラストを生み出す。
「確かにそこから私の映画のリズムが生み出されているかと思います。私は常に断絶を求めています。風景のなかに鳥の声が響いていて、そこに突然全速力で走る新幹線が入ってくる。そんなシンプルな二項対立で私は映画を作っているような気がします。しかもその二項対立が両極端の対立になっています。人間にしても自然にしても、あるいは死にしても人物が置かれている状況にしても、その極端なところにとらわれていて、その両極がこれらの映画のなかに入り込んでいるのでしょう。だから人間の時間と自然の時間がはっきりと出てきています。私は音を音楽の変わりに使っているわけですけれども、微妙な音はなく、雑音があるかないかだけです。現実の世界では、音はもっと複雑なものですけれども、私の場合は、鳥の声が聞こえるかバイクのモーターの音が聞こえるかのどちらかで、二項対立をはっきりと打ち出します」
自然の営みには変わることのない時間の流れがあるのに対して、人間個人の営みは死によって区切られた時間原則に支配されている。デュモンの映画では、その自然の時間と人が生きる時間の断絶が浮き彫りにされる。人はその苦痛からノイズを発し、衝動に駆られる。デュモンはこの二項対立の深みにはまり込んだ人物の有り様を通して、普遍的なものをとらえようとする。
「哲学の勉強をしたことから、普遍的なものを追及するようになったのだと思います。宗教的なものを追求しているといえるのかもしれませんが、それが普遍的なものでも宗教的な主題であっても、とにかくはっきりと目に見えるかたちで追究しています。映画は、普遍的なもの、精神的なものをそうやって地に足がついたところで把握できる表現手段だと考えます」
デュモンの言葉にある"地に足がついたところで"というのは、言葉を変えれば、彼が生まれ育ち、映画の舞台としているフランドル地方のバイユールということになるのだろう。
「普遍的なものは直接的、即時的に把握できるものではありません。ひとつ例を挙げるとすれば、日本映画は私にとって外国の映画ですが、しかし日本の村で撮影された農民の姿に感動を覚えます。従って何か特殊なもの、相対的なものを撮影することによって、普遍的なものに到達する可能性があるわけです。私自身、特殊なものを捉えて普遍的なものに至ろうとしています。私の故郷がひとつの意味を持ちます。私の故郷は特殊なものであり、そこに特殊な人々、特殊な男が存在しています。そうした特殊なものを捉えることによって、普遍的なものに至ろうと試みています。ですから普遍的なものは、地方的なもの、陳腐なもの、当たり前のもの、相対的なもの、そうしたものを通じて表現できると思います。私は自分の故郷に対してノスタルジーを抱いているわけではありません」
『ユマニテ』には彼の宗教観といえるものが、目に見えるかたちで現れている。この映画で教会は、登場人物がちらっと見て通り過ぎるものでしかない。主人公の警部補は、映画の冒頭で土に顔を埋めている。彼が何をしようとしていたのかは定かでないが、事件の捜査を進め、関係者から話を聞くたび、彼は他者との抱擁を通して土に触れた頬で何かを確認していく。それは二項対立の深い溝を埋めていく行為と見ることもできる。
「それがまさにこの映画のなかで起こっていることです。教会は結局人間が作った構築物に過ぎない。教会が表現するのは表面的で空虚な宗教であり、壊すべきものです。それに対して彼は直接に土に触れる。この土のなかに神聖なものが含まれているからです。土の方が宗教的なのです。いずれにしろ私の試みは、物質主義的な探求です。超越的なものを撮影しようとは考えていませんし、精神的な生き方を描こうとは思っていません。宗教とは物質の表現に過ぎません。物質を撮影することで初めて宗教的なものが撮影できるんでしょう。それにしろ私は本当にこの地上の人間の目線で撮影を行っていて、一度も超越的なものを信じようとはしていません。ですから物質主義的で宗教的な視点と言うことができます。
私は、一方に物質があって一方に精神があって苦悩が生ずるというようなマニ教的な二元論には根ざしていません。映画は結局、肉体や自然しか撮影することしかできません。映画がなにか精神的なものを表現しようとすれば、とても比喩的な表現になるしかありませんが、私はそういう方向はまったく目指していません」
『ユマニテ』には警部補が、美術館で少女を描いた絵に見入る場面が印象的に描かれているが、それ以外にもデュモンの映画には、構図など絵画の影響があるように思える。
「私は映画よりむしろ絵画から影響を受けています。絵画のなかに映画を考えるたくさんの材料を見つけたのです。映画は映画そのものについて考える材料を私にもたらすことはなかった。たとえば『ジーザスの日々』の出発点には、イエスの生涯という主題がありましたが、絵画はこの主題を2000年前から扱っていたわけです。そこで私はこの主題を現代的に扱うにはどうすればよいか考え、映画が最適の手段であることに気づいたのです」
デュモンの次回作はアメリカの西海岸で撮影される予定だ。彼が生まれ育ったフランドル地方からアメリカに舞台が変わるということは、映画の主題も大きく変わってくるのではないかと思えるのだが。
「確かに違ったものになります。まず別の場所で映画を作りたいという欲求がありました。別の場所を舞台にして、先ほどお話したような普遍的なものに到達したいということです。新作では、むしろ映画そのものについて考える映画を作るつもりです。自分のなかにある映画に対する疑問を提起するような。ストーリーは探偵もので、カリフォルニアで事件の捜査が行われる。アメリカ映画はたくさんのイメージを人々の頭のなかに植え付けてきました。そんなハリウッド映画の原型を使って、最終的にまったく別の世界を切り開くことができればと思っています」
『ジーザスの日々』とそれを発展させた『ユマニテ』で、独自の視点から現代的なイエスの姿を描き出したデュモンだけに、アメリカ的な神話をどのように解体し、普遍的な世界を切り開くのか、実に楽しみである。 |