――あなたの映画では、「エマ」の少女が誘拐の狂言を仕組んだり、「マイ・リトル・ガーデン」の少年が、ナチス占領下の状況をロビンソン・クルーソーの世界に置き換えるなど、現実と虚構の交錯のなかで、主人公が心の通う絆を見出したり、苛酷な状況を生き抜いたりします。
「MIFUNE」でも自分の世界を生きているルードが、弟を含む3人の男女の嘘で塗り固めたような人生を変えていくところにある種の共通点を感じるのですが。
SKJ わたしはこれまでに8本の作品を監督してきましたが、そのなかで同じ物語を繰り返し語っています。それは子供たち、小さな存在がサバイバルしていく物語です。画家のモネが同じ花のモチーフを繰り返し描きつづけたように、わたしもキャラクターや色を変えて同じ主題を描いているのです。
そこから見えてくる人間的な部分というものがとても重要だと思います。「MIFUNE」のなかでまともな人間はルードだけです。彼は自分の背景を隠したり、嘘をついたりしませんから。わたしにとっては彼がこの映画の中心人物なのです。
――「MIFUNE」では、クレステンの新婚初夜に愛情ではなく欲得の関係が浮き彫りにされたり、リーバが娼婦という過去を持っているなど、セックスに縛られた人間が解放されていく物語にもなっていると思うのですが、セックスを強調したのはどうしてでしょう。
SKJ わたしは中身のあるセックス・シーンを映画に盛り込むのは素晴らしいことだと思います。セックスは人生のなかで最も重要な部分ですから。ところが、「スターシップ・トゥルーパーズ」のようにたくさんの人間を殺す映画は何歳の子供でも観れるのに、
自分の映画のようにほんの少しのセックス・シーンがあるだけで16歳以下の子供が観られないということには、とても疑問を感じています。
「MIFUNE」の最初のセックス・シーンは観客が笑えるものにしたいと思いました。彼らのセックスは機械的で、お互いにまったく違うことを考えています。クレステンにとってはクルマのキーをいじっている方が楽しいわけです。ドグマでは映像と音を別々に処理することが許されないので、
このシーンの撮影では新婦の女優に、7カット撮るけど毎回違う声を出してほしいと頼みました。わたしはその違うキーを使って、曲を作るようにこのシーンを編集しました。
しかし映画の後半にあるクレステンとリーバのセックスは、そういう安易なものではなく、より繊細なものに変わっていきます。そう、彼らは性的な世界のなかで、解放されていくわけです。いまからこの作品を振り返ると、ルードにもフィアンセを準備するべきだったかとも思うのですが、それは観客の想像力にゆだねたいと思います。
――ミフネのエピソードについては、三船敏郎が亡くなったというニュースを耳にしたことがきっかけとも聞いたのですが、それ以前からミフネに興味があったのですか。
SKJ 子供の頃に初めて「七人の侍」を観て、ミフネに夢中になりました。彼は異国の人間で、言葉や姿かたちもまったく違うのですが、わたしたちとまったく同じ感情を表現してました。すごく可笑しくて、切なくて、男らしくて、強くて、優しくて、とにかく素晴らしかった。それから何度も「七人の侍」を観て、
彼の芝居が脳裏に焼きつきました。そして、「MIFUNE」で兄弟がやるのとまったく同じように、わたしは息子たちとミフネごっこを本当にやってました。日本語の意味はわかりませんが、声を真似ていたのです。だから、クレステンにわたしのミフネへの想いを反映することにし、題名も「MIFUNE」にしました。
――ドグマの体験はあなたの次の作品に何かよい影響をもたらすと思いますか。
SKJ より自由な創作の場を求めていたわたしにとって、よい経験になりました。その経験は、さらに二本の低予算映画を作るためのインスピレーションをわたしに与えてくれました。そういう意味でとても有意義でしたが、またドグマ作品を撮ろうとは思っていません。それは馬鹿げています。
しかしもしかしたら、十年後には、新しいインスピレーションを求めて、またドグマにチャレンジするかもしれません。
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