監督、脚本、主演、音楽をひとりでこなした映画『バッファロー'66』が話題のヴィンセント・ギャロは、実にユニークな経歴の持ち主だ。
1961年、ニューヨーク州バッファローに生まれたギャロは、16歳で故郷を後にし、ニューヨークのアンダーグラウンドの世界に飛び込む。
以来彼は、ミュージシャンとしてバスキアとバンドを結成し、画家として個展を開き、プロのバイクレーサーになり、俳優としてエミール・クストリッツァやアベル・フェラーラの映画に出演し、
モデルとしてCFに登場し、ハイファイ機材の批評も手がけるなど、多彩な活動を繰り広げている。
『バッファロー'66』は、彼がそのマルチな才能を映画という表現に凝縮した作品といえる。
ギャロはこの映画の成功によってこれまで以上に注目を集め、時の人となった観があるが、そんな彼が感情をむき出しにして批判するのが"トレンディー"映画だ。
「オレが嫌いなのは、ハーモニー・コリンの『ガンモ』みたいにトレンディーなだけの映画だ。コリンは最低のクソ野郎だし、
『ブギーナイツ』のポール・トーマス・アンダーソンやタランティーノも話にならない。あんな作品を作る連中は、人類の進化に貢献することもなく、商業主義に乗っかってるだけなんだ。
作品のコンセプトも映像言語も既成のものを焼き直しているにすぎない。日本人の観客は作品を見る眼を持っているけど、トレンディーなものに弱いところがあって、
コリンのダサい映画まで追いかけてしまうんだよ」
■■ギャロの独自の美学とは■■
このコメントはあまりに感情的で、これだけではただトレンディーな映画と創造的な映画の違いは判然としないが、
ギャロは自分の表現に対して常に独自の美学というものを持っているように見える。たとえば彼は、俳優というものをアクターとムーヴィースターに分け、
演技者としてアクターではなくムーヴィースターであることを心がけているという。
「アクターというのは、俳優として認められるために何かを証明しなければならないような仰々しさがある。
演技にとりつかれているんだ。25年前にデ・ニーロが出てきたとき、彼はムーヴィースターだった。カリスマがあり、イカしてた。
でも演技にこだわりだして、どんどんアクターに変貌し、オレは耐えられなくなった。デ・ニーロになりたいっていう若い連中がたくさんいてうんざりするよ。
演技があまりにも芸術的になると映画のなかでは生きないんだ。その点、ウォーレン・ベアティは素晴らしかった。彼はどんな作品でも自然体でフィルムメイカーと協調関係を築き上げていた。
ムーヴィースターというのは、人類の進化のなかに無理なく適応しているコンセプトなんだよ」
ギャロが頻繁に口にする"人類の進化"という言葉については首をひねる読者もいるかと思うが、 その意味するところについては彼の美学がもう少し明確になってからあらためて考えてみたいと思う。というのも彼は、これまで俳優として出演した映画については必ずしも満足していないからだ。
「オレはクストリッツァのそれまでの3作品を素晴らしいと思い、『アリゾナ・ドリーム』に出演したんだが、6ヶ月かけて撮影された27時間のオリジナル・カットが2時間に編集されたとき、
オレのパフォーマンスが台無しになってしまった。この苦痛は言葉にしがたい。アベル・フェラーラは独自のヴィジョンを持った本当に素晴らしい監督だと思う。 ただ『フューネラル』で残念だったのは、撮影中に彼のヤク中がどんどんひどくなっていって、彼が思い描くヴィジョンを完璧に表現できない状態になってしまったことだ。
オレは監督として個々のパフォーマンスから最良のものを引きだす能力を持っているし、『バッファロー'66』では映画を自分で完璧にコントロールすることができた」
■■不毛なサバービアの恐怖■■
『バッファロー'66』の物語は、ギャロ扮する主人公ビリーが、5年の刑期を終え、自由の身になるところから始まる。
彼はバッファローの両親の家に戻ろうとするが、両親に電話したときに厄介な問題を抱え込んでしまう。結婚して政府の仕事で遠くへ行くことになったと嘘をついていた彼は、
話の成り行きで妻を連れて帰ると口走ってしまうのだ。困り果てた彼は、ダンススクールのレッスンに来ていた見ず知らずの娘レイラを拉致し、妻に仕立てようとする。
映画はそんな滑り出しから風変わりなラブ・ストーリーへと発展していくことになる。
このドラマには、バッファローで生まれ育ったギャロの実体験が反映され、映画の中心的な舞台となる家は、かつて彼と両親が実際に暮らしていた家が使われている。
そんな映画からは、テレビにファミリー・レストラン、ボーリング場、ストリップクラブくらいしか娯楽がなく、
ヒーローになりたかったらボーリングの腕を磨くしかないようなサバービア(郊外住宅地)の日常が浮かび上がってくる。
「オレは低所得者たちが暮らすバッファローのサバービアで育った。映画に出てくるあの家だ。そこにあるものはすべてくだらない。
若い頃は、セックスとか盗みのような犯罪がとても刺激的に見えた。なぜならどいつもこいつも、ソファーに座ってテレビにかじりついているだけだから。
本当に悲惨な世界だった。バッファローでは一年の半分が雪との戦いなんだ。だから女のパンティを脱がしたり、物を盗んだりするしかないんだ。恐ろしい町だよ。本当に恐ろしい」
映画のなかで、家に戻ったビリーに対する両親の態度は決して暖かいものではない。母親はテレビのアメフトに熱中し、父親の態度には息子に対する敵意が見え隠れする。
そんな家族の姿から察せられるギャロの少年時代は明るいものとは言いがたいが、ニューヨークに自分の居場所を見出した彼は、なぜそんな過去を振り返ろうとするのだろうか。
「オレはひとりの人間として自分がそれほど面白い人間だとは思わない。ばかげたエゴやコンプレックス、怒りや強迫観念にいつも振り回されている。
しかし明確なヴィジョンを持った映画を作ることによって、そんな自分というものを乗り越えられると思う。そこにオレが映画を作ろうとする動機があるんだ」
■■コントロールする欲望の原点■■
サバービアの生活は、いろいろな意味でギャロの創作に影響を及ぼしているように思える。たとえばそれは、主人公ビリーの潔癖症ともいえる性格だ。彼は出所直後に尿意をもよおすが、
少しでも人目があると用が足せないらしく、必死にトイレを探しつづける。レイラを拉致した彼は、彼女のクルマに乗り込むときにフロントガラスの汚れに気づき、
緊迫した状況であるにもかかわらず、彼女にきれいにするよう命じる。さらに彼は、自宅のベッドルームから仲間に電話した後で、ベッドカヴァーの皺をきれいにのばすのだ。
「まず最初に、そのことに触れてくれたことにお礼を言うよ。これまでのインタビューで一度も尋ねられたことがなかったから。オレは病的な習慣について考えていたんだ。
もしオレがああいうとんでもない両親と生活していたら、どんな習慣が生まれることになるかってことだ。これは、怒りに駆られる人間がどうやって体系的に自分をコントロールし、
人生の苦痛を生き延びる道を探し出すかという社会学的なコンセプトに基づいている。仲間に電話した後の主人公の行動はまるで精神病者だが、それは同時に自分をコントロールする行為でもあるんだ」 |