しかし、その符合によってジミーをノヴァーリスに重ねようとしているわけではない。そこにはもう一つの符合がある。少女が観た映画のなかで、ジミーは自分の息子に会ったことのない父親を演じていた。そして、ジミーがノヴァーリスを読んで心に残ったのは、「私は常に帰る、父の家へと帰る」という言葉だった。それらを踏まえるなら、ジミーには親子の関係をめぐる喪失が影響を及ぼしていると想像することができるだろう。
そんな4人の主人公たちは、喪失と向き合い、それぞれの道を選択していく。だが、彼らの選択に話を進める前に、触れておかなければならないことがある。それは、この映画にちりばめられた多様な欲望の表現だ。彼らの選択と欲望の表現は密接に結びついている。
フレッドが最初に女王の特使と話をするとき、彼は新聞に載ったミス・ユニバースの写真を見る。そして、ヴェネチアのサン・マルコ広場で彼女とすれ違い、水没によって溺れかける奇妙な夢を見る。そのミス・ユニバースは彼の記憶にも影響を及ぼしている。フレッドがミックと出歩くたびに、ギルダの話題を持ち出すようになるからだ。ギルダとは彼らの幼なじみの女性で、二人が共に憧れ、フレッドは20年間も彼女と寝たいと思い続けていたらしい。
フレッドを担当するマッサージ師の女性の存在も見逃せない。彼女はフレッドの肉体に触れることで、心の動きまで感じ取り、彼も触れられることが刺激になっているように見える。レナにとって、ジュリアンがベッドで最高という理由でパロマ・フェイスを選んだことは、これ以上ない屈辱に違いないが、やがてそれが彼女の目覚めを促すことにもなる。フレッドとミックが賭けの対象にしていた無言の男女も、ただ言葉を交わすのではなく、欲望に突き動かされて声を轟かせる。
さらにソレンティーノは、異なる欲望も掘り下げている。マラドーナを彷彿させる元サッカー選手は、肉体が衰えているにもかかわらず、テニスコートに転がっているボールを目にして、リフティングをやらずにはいられなくなる。フレッドも誰も見ていない牧草地で、牛の楽団を指揮してみせる。スポーツ選手も音楽家も、引退したからといって内なる欲望が消え去るわけではない。
喪失と向き合う主人公たちは、そうした多様な欲望によって変化し、それぞれの選択がラストの「シンプル・ソング」に集約されていく。この曲はすべての支配からの解放を表現しているが、では彼らはどのように解放されるのか。
ジミーにとってフレッドやミックは父親的な存在であり、彼はそんな関係を通して心を開き、ミス・ユニバースに対する態度に表れていたようなシニシムズから脱却していく。彼はラストで、演奏会場の客席から父親を見つめているといってもいいだろう。レナは父親との確執を解き、自由に目覚めていく。
ミックにとっては映画がすべてであり、映画以外に自分が生きられる場所はない。だから、これまでミックが生み出してきたヒロインたちが彼を迎えるように現れ、彼は映画という唯一の世界に帰っていく。レナから音楽しか頭になかったと責められたフレッドは、音楽以外の世界が彼を作り、いまもそこに生きていることを実感し、過去という檻から愛を解き放つ。彼らはそれぞれに欲望に目覚め、それを肯定し、喪失を乗り越えていくのだ。 |