“マスター・オブ・ホラー”と称えられるウェス・クレイヴン が監督や製作を手がけた作品には、サバービア やメディア、人種といった要素と結びついたホラー・イメージを通して、アメリカの深層を垣間見るような魅力がある。
たとえば、『スクリーム2』の冒頭には、こうした特徴が見事に凝縮されていた。この映画のサントラは、西海岸出身のラッパー、マスターPが都市のゲットーに押し込まれた黒人のタフな日常を浮き彫りにする<スクリーム>から始まり、保守的な土地柄で知られるカリフォルニア州オレンジ郡のサバービアから登場してきたバンド、コットンマウス・キングス の<サバーバン・ライフ>がそれにつづく。
この2曲の流れはなかなか興味深い。保守的な白人のコミュニティのなかで、疎外された“白人マイノリティ”を自認するコットンマウス・キングスは、自分たちの立場をゲットーの黒人にダブらせ、苛立ちや怒りを“エボニックス(黒人英語)”とヒップホップで表現するからだ。
さらに映画の導入部も、そんな音楽と呼応している。この映画は、前作『スクリーム』で描かれた事件が映画化され、それが劇場で公開されるところから始まる。劇場の入り口に並ぶ観客のなかには黒人のカップルがいて、彼女は白人の娯楽であるホラー映画のお決まりのパターンに反感を持っている。本当は黒人監督が現実を描くブラック・ムーヴィーを観たいと思っているのだが、軽薄な彼氏に強引に誘われ、ホラーを観るはめになったのだ。
劇場のなかは、“スクリーム”のトレードマークとなった白いマスクをした若者たちが、スクリーンで展開されるお決まりのパターンにはしゃぎまくっている。だが、そんな大騒ぎのなかでこの黒人のカップルが何者かに惨殺されてしまう。
サントラの2曲のコントラスト、そして不気味なマスクが闇に踊る劇場のなかで繰り広げられる惨劇からは、黒人社会の現実と外部の世界に対する認識を欠いた閉塞的なサバービアにうごめくダークな感情の異様なズレが浮かび上がり、アメリカの深層が見えてくる。
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クレイヴンが製作総指揮にあたった『ドラキュリア』も例外ではない。この映画の設定は現代だが、導入部はどちらかといえば古典を意識した吸血鬼ものを予感させる。最初の舞台はロンドンであり、吸血鬼退治には欠かすことのできない人物ヴァン・ヘルシングが登場する。
彼が運営する博物館には、100年前に捕らえた吸血鬼が封印されているが、窃盗団が吸血鬼を眠りから覚ましてしまう。しかし、舞台が変わると映画の雰囲気ががらりと変わる。吸血鬼は自分の血を継承するヘルシングの娘に会うため、彼女が住むニューオーリンズに現れる。その後のドラマは、古典からはほど遠い現代的なゴス・ワールドになる。
サントラには、スレイヤー、パンテラ、ゴッドヘッド、ディスターブドといったメタル、ヘヴィー・ロック、インダストリアル・ゴスのバンドが顔をそろえ、重くダークな空気を醸しだす。ドラマでは、そんなサントラを強調するかのように、吸血鬼のお目当ての娘がCDショップで働いている。しかしそれ以上に興味深いのは舞台だ。
ニューオーリンズといえば、アメリカに新しい吸血鬼ブームを招来した作家アン・ライスの拠点である。そこで筆者が思い出すのは、アン・ライスの伝記や読本などを手がけてきたキャサリン・ラムスランドが98年に出版した『Piercing the Darkness』のことだ。これは、現代のアメリカに様々なかたちで広がる吸血鬼のネットワークやゴス・カルチャーを取材したノンフィクションである。
そのなかで著者は、ニューオーリンズがいかに吸血鬼に相応しい街であるかを力説しているが、それ以前にこの本の流れが映画と符合している。この本の大きなポイントになっているのは、現代の吸血鬼文化の源は、もはやブラム・ストーカーではなくアン・ライスであり、それを支えているのはX世代だということだ。X世代という言葉はすでに消費され尽くしているので、画一的なサバービアの閉塞状況のなかで出口を求めている世代と言い換えてもよいだろう。