旅立つ息子へ
Here We Are


2020年/イスラエル=イタリア/ヘブライ語/カラー/94分/1.85ビスタ/5.1ch
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(初出:『旅立つ息子へ』劇場用パンフレット)

 

 

家族を通して社会や国家を描く
ベルグマン監督の作家性

 

[Introduction] 監督は『ブロークン・ウィング』(02)、『僕の心の奥の文法』(10)で、史上唯一、東京国際映画祭グランプリを2度受賞したイスラエルの俊才ニル・ベルグマン。脚本家の父と弟をモデルに、弟が好んで観ていたチャップリンの傑作『キッド』で描かれる特別な絆にオマージュを捧げた。

 そんな親子を再現したのは、イスラエルのベテラン俳優のシャイ・アヴィヴィと、無名の新人ノアム・インベル。特にインベルのリアリティある演技は天才的だ。彼の父が自閉症スペクトラム施設の職員で、小さい頃から施設の友達と触れあってきた経験も味方しているとはいえ、『ギルバート・グレイプ』で一躍注目されたレオナルド・ディカプリオの再来だと、すでに国内外で評判になっている。そして、監督と俳優陣の見事な手腕でイスラエル・アカデミー賞主要賞を総ナメした。(プレス参照)

[Story] 愛する息子ウリのために人生を捧げてきた父アハロンは、田舎町で2人だけの世界を楽しんできた。しかし、別居中の妻タマラは自閉症スペクトラムを抱える息子の将来を心配し、全寮制の支援施設への入所を決める。定収入のないアハロンは養育不適合と判断され、裁判所の決定に従うしかなかった。入所の日、ウリは大好きな父との別れにパニックを起こしてしまう。アハロンは決意した。「息子は自分が守る―」こうして2人の無謀な逃避行が始まった。

[以下、本作のレビューになります]

 イスラエル出身のニル・ベルグマンは、日本と縁の深い監督だ。彼は、長編デビュー作の『ブロークン・ウィング』(02)と2作目の『僕の心の奥の文法』(10)で、東京国際映画祭グランプリを2度受賞している。筆者はその2度目の受賞のときに彼にインタビューする機会に恵まれ、作風や関心などについていろいろ話を聞くことができた。

 新作の『旅立つ息子へ』は、それだけを観ても感動を覚える作品だが、初期2作品のことが頭に入っていると、そこに異なる魅力を見出すことができる。ベルグマンは機能不全に陥った家族に強い関心を持っている。彼が描く家族の物語には、ふたつの特徴がある。まず、主人公やエピソードに何らかのかたちで彼自身の個人的な体験が投影されている。そして、家族を描いているように見えながら、それが社会や国家の縮図にもなっている。

 デビュー作の『ブロークン・ウィング』では、父親の突然の死で精神的にも経済的にも追いつめられ、崩壊しかける母親と4人の子供たちの姿が描き出される。この物語は、ベルグマンが10歳のときに両親が離婚し、家族がみなその事態にどう対処していいのかわからなかったことがヒントになっている。と同時に、ばらばらになる家族は、95年のラビン首相の暗殺によって、進むべき方向を見失ったイスラエルという国家を象徴してもいる。

 イスラエルの作家デイヴィッド・グロスマンの小説『The Book of Intimate Grammar』を映画化した2作目の『僕の心の奥の文法』(10)では、国家の地固めが進む60年代初頭を背景に、鋭敏な感性ゆえに両親とも同世代の若者とも分かり合えず、孤立していく少年アハロンの世界が描き出される。彼は2年経っても背が伸びず、大人になることを拒んで成長をやめてしまったかのように見える。


◆スタッフ◆
 
監督   ニル・ベルグマン
Nir Bergman
脚本 アルフォンソ・マイオラナ
Dana Idisis
撮影 シャイ・ゴールドマン
Shai Goldman
編集 アヤラ・ベンガッド
Ayala Bengad
作曲 マッテオ・キュラロ
Matteo Curallo
 
◆キャスト◆
 
アハロン   シャイ・アヴィヴィ
Shai Avivi
ウリ ノアム・インベル
Noam Imber
タマラ スマダル・ヴォルフマン
Smadar Wolfman
エフィ エフラット・ベン・ツール
Efrat Ben-Zur
アミール アミール・フェルドマン
Amir Feldman
シャローナ シャロン・ゼリコフスキー
Sharon Zelikovsky
-
(配給:ロングライド)
 

 これは69年生まれのベルグマンが体験していない時代の物語だが、彼は21歳のときに原作を読んで、自分の人生を他の人間が書いているように思えてショックを受け、映画化に至った。そんなドラマには、戦争を連想させるイメージが巧妙に盛り込まれ、強く逞しい若者を求める画一的な社会が見え隠れし、芸術を愛するアハロンには居場所がなくなっている。

 では、この初期2作品と本作がどのように結びつくのか。確かに本作でも機能不全に陥った家族が描かれているが、物語の土台になっているのは、脚本を手がけたダナ・イディシスの父親と弟との特別な関係であり、まったく違う設定のように見える。

 しかしそこには深い繋がりがある。筆者が注目したいのは、ウリを施設に入れたくないアハロンが、ウリを連れて逃避行に出ることで、彼自身が抱えている問題が明らかになることだ。アハロンと彼が頼る旧友のエフィや弟のエミールとのやりとりからは、彼の過去が見えてくる。

 アハロンは、パーソンズ美術大学で学び、在学中に大手広告代理店で働くことになったらしい。しかし、彼が描いた空飛ぶトースターの絵の羽や色を変えられたことが許せず、年収9万ドルの仕事を投げ出し、ウリと僻地に移り、人を避けるような生活を始めた。

 エミールが兄に言う「自分が思ったとおりにならないと、その場から逃げ出す」という言葉は核心を突いている。アハロンは、エフィやエミールと別れるときも、ホテルをチェックアウトするときも、逃げるようにその場を後にする。自分の問題と向き合いたくないからだ。

 そんなアハロンと初期2作品の主人公には共通点がある。『ブロークン・ウィング』に登場する家族の長男は、父親の死後、学校に行くのをやめ、運命論者になり、外出するときにはネズミの着ぐるみを頭からすっぽりとかぶり、人を寄せ付けまいとする。『僕の心の奥の文法』のアハロンは、英語の現在進行形に特別な関心を示し、逃げ出したいような状況に陥ると、頭に思い浮かぶ単語に片っ端から「ing」をつけて進行形の世界にこもり、自分を外部から遮断する。

 本作の父親の名前もアハロンであるのは、おそらく偶然ではないだろう。ベルグマンは、『僕の心の奥の文法』のアハロンについて以下のように語っていた。

「内面に何か違うものを持っている。だから自分が特別な人間であるということを感じとる必要がある。そしておそらく特別な人間に、たとえばアーティストになるのではないかと私は思っています。彼の人生にはあのような罰がずっとつづくと思います。(中略)アハロンは、この国でどうすれば生きのびていけるのか、自分で答えを見つけるしかないのです」

 自身も父親となったベルグマンは、まったく違う設定のなかで、アハロンが父親になったらどんな問題にぶつかるのかを想像し、描いているように思える。本作のアハロンは、ウリを守るためにキャリアを犠牲にしたわけではなく、彼が選択する方法や行動には自身が抱える問題が大きな影響を及ぼしている。

 『僕の心の奥の文法』と本作には、名前や芸術家肌の他にも、成長をめぐって興味深い接点を見出すことができる。少年のアハロンは、先述したように大人になることを拒むように成長をやめてしまう。父親のアハロンは、ウリがずっと子供であるような幻想に浸っている。だから、一緒にヒゲを剃っても、ウリが女性に性的な興味を示しても、息子の成長を受け入れることができない。

 そうしたことを踏まえると、本作のラストがより印象深いものになる。施設に入ったウリは、アート・ワークショップに参加することで、絵を描くことに楽しみを見出している。もしアハロンが問題と向き合い、自身のキャリアをもう少し肯定的にとらえていたら、ずっと以前に彼がウリに絵を描く楽しみを教えることができただろう。

 ベルグマンは、父親と自閉症スペクトラムの息子の関係を通して、親や上の世代が何らかの事情で視野狭窄に陥れば、子供や新しい世代を小さな世界に閉じ込めてしまいかねないことを、ユーモアも交えながら実に巧みに表現している。

 

(upload:2021/10/26)
 
 
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