これは69年生まれのベルグマンが体験していない時代の物語だが、彼は21歳のときに原作を読んで、自分の人生を他の人間が書いているように思えてショックを受け、映画化に至った。そんなドラマには、戦争を連想させるイメージが巧妙に盛り込まれ、強く逞しい若者を求める画一的な社会が見え隠れし、芸術を愛するアハロンには居場所がなくなっている。
では、この初期2作品と本作がどのように結びつくのか。確かに本作でも機能不全に陥った家族が描かれているが、物語の土台になっているのは、脚本を手がけたダナ・イディシスの父親と弟との特別な関係であり、まったく違う設定のように見える。
しかしそこには深い繋がりがある。筆者が注目したいのは、ウリを施設に入れたくないアハロンが、ウリを連れて逃避行に出ることで、彼自身が抱えている問題が明らかになることだ。アハロンと彼が頼る旧友のエフィや弟のエミールとのやりとりからは、彼の過去が見えてくる。
アハロンは、パーソンズ美術大学で学び、在学中に大手広告代理店で働くことになったらしい。しかし、彼が描いた空飛ぶトースターの絵の羽や色を変えられたことが許せず、年収9万ドルの仕事を投げ出し、ウリと僻地に移り、人を避けるような生活を始めた。
エミールが兄に言う「自分が思ったとおりにならないと、その場から逃げ出す」という言葉は核心を突いている。アハロンは、エフィやエミールと別れるときも、ホテルをチェックアウトするときも、逃げるようにその場を後にする。自分の問題と向き合いたくないからだ。
そんなアハロンと初期2作品の主人公には共通点がある。『ブロークン・ウィング』に登場する家族の長男は、父親の死後、学校に行くのをやめ、運命論者になり、外出するときにはネズミの着ぐるみを頭からすっぽりとかぶり、人を寄せ付けまいとする。『僕の心の奥の文法』のアハロンは、英語の現在進行形に特別な関心を示し、逃げ出したいような状況に陥ると、頭に思い浮かぶ単語に片っ端から「ing」をつけて進行形の世界にこもり、自分を外部から遮断する。
本作の父親の名前もアハロンであるのは、おそらく偶然ではないだろう。ベルグマンは、『僕の心の奥の文法』のアハロンについて以下のように語っていた。
「内面に何か違うものを持っている。だから自分が特別な人間であるということを感じとる必要がある。そしておそらく特別な人間に、たとえばアーティストになるのではないかと私は思っています。彼の人生にはあのような罰がずっとつづくと思います。(中略)アハロンは、この国でどうすれば生きのびていけるのか、自分で答えを見つけるしかないのです」
自身も父親となったベルグマンは、まったく違う設定のなかで、アハロンが父親になったらどんな問題にぶつかるのかを想像し、描いているように思える。本作のアハロンは、ウリを守るためにキャリアを犠牲にしたわけではなく、彼が選択する方法や行動には自身が抱える問題が大きな影響を及ぼしている。
『僕の心の奥の文法』と本作には、名前や芸術家肌の他にも、成長をめぐって興味深い接点を見出すことができる。少年のアハロンは、先述したように大人になることを拒むように成長をやめてしまう。父親のアハロンは、ウリがずっと子供であるような幻想に浸っている。だから、一緒にヒゲを剃っても、ウリが女性に性的な興味を示しても、息子の成長を受け入れることができない。
そうしたことを踏まえると、本作のラストがより印象深いものになる。施設に入ったウリは、アート・ワークショップに参加することで、絵を描くことに楽しみを見出している。もしアハロンが問題と向き合い、自身のキャリアをもう少し肯定的にとらえていたら、ずっと以前に彼がウリに絵を描く楽しみを教えることができただろう。
ベルグマンは、父親と自閉症スペクトラムの息子の関係を通して、親や上の世代が何らかの事情で視野狭窄に陥れば、子供や新しい世代を小さな世界に閉じ込めてしまいかねないことを、ユーモアも交えながら実に巧みに表現している。 |