ダイアナたちは、スーパーPAC(特別政治行動委員会)の抜け穴を利用して、町の学校を維持していくために必要な資金を調達した。スチュワート監督は、それが単なる想像の産物ではないことを強調するために、エンディングに連邦選挙委員会の元委員長トレヴァー・ポッターのインタビューを盛り込んでいる。
連邦選挙委員会は選挙資金法制を管理・執行する機関だが、彼の説明によれば、実際には機能していないため、献金の受け皿になるスーパーPACに流れ込む多額の資金が追跡不能になっている。だからスーパーPACを作って資金を集め、別の組織や慈善団体に寄付し、公共の目的に使うこともあり得るという。
そんなダイアンたちの企みが、二大政党の代理戦争に発展する展開は、いかにもPLAN B作品らしい。本作を観ながら筆者が思い出していたのは、選挙を題材にした映画ではなく、同じPLAN Bが製作を手掛けたアダム・マッケイ監督の『マネー・ショート 華麗なる大逆転』のことだ。リーマン・ショックという未曽有の危機を予測し、それを逆手にとって財をなす準備をしていた男たちの物語には、本作に通じるスタンスがあるように思える。
主人公のひとり、ヘッジファンド・マネージャーのマイケルは、サブプライム・ローン債権を含む証券化商品である債務担保証券(CDO)が、数年以内にデフォルト(債務不履行)に陥る可能性が非常に高いことに気づく。そこで彼は、「クレジット・デフォルト・スワップ(CDS)」という金融取引に目をつけ、サブプライム・ローンの価値が暴落したときに巨額の保険金を受け取れる契約を投資銀行と次々に結んでいく。
CDSを買った人は、プレミアム(保険料)として決まった金額を投資銀行に払い続けなければならない。それは、住宅市場が安定していると信じる投資銀行にとっては、まるで向こうから勝手に金が転がり込んでくるようなものなので、嬉々としてマイケルにCDSを売る。
マイケルは、問題を正そうとするわけではなく、金融取引の盲点を突いて利益を上げようとするだけだが、彼と彼に追随する男たちの行動は、金融の世界の危うい現実を映し出す役割も果たすことになる。
本作のダイアナは、ゲイリーのような人間たちを端から信じていない。彼らは激戦州に4年に1度だけ現れて、口約束だけして、終わったら消えて、なにも変わらない。そこで彼女と住人たちは、スーパーPACの抜け穴を利用するために、YouTube動画というエサをまく。彼女たちが必要としていたのは、学校を維持するための資金だったが、エサに食いついたゲイリーは、町長選を布石に民主党の地盤を広げるという野心に駆られて暴走し、そこから危うい現実が浮かび上がってくる。
スチュワート監督は、ゲイリーや彼のスタッフと住人たちとの現実のズレを、かなり滑稽な表現で描き出している。
ディアラケンに向かうプライベートジェットでモッツァレラのカプレーゼを注文していたゲイリーは、ディアラケンで最初に入った店ではバドワイザーとバーガーを注文する。それで庶民を装っているつもりになっているが、そこはドイツ系ビアホールで、実は他所で調達したものを出されている。彼のスタッフは、データに表れた独身女性の集団がまさか修道会の尼僧とは思わず、避妊に関するパンフレットを配ってしまい、支持率の急落を招く。
彼らの頭のなかにあるのは、イメージや数字ばかりであり、熾烈な攻防は、ゲイリーが「支持者を増やせないなら、敵の投票者を減らすだけだ」と表現するネガティブキャンペーンへとエスカレートしていく。それは、本作の鍵を握るスーパーPACにも結びつく。ドラマでも触れられているように、スーパーPACが候補者や政党と連携することは禁じられているが、相手候補の批判はできる。ということは、ジャックが町の窮状を訴えて得た資金もそこに注ぎ込まれることになる。
本作には、ゲイリーとフェイスの下ネタの応酬なども盛り込まれ、滑稽に見えるように仕立てられているが、その核には不条理がある。団結して町を立て直そうとしているディアラケンの住人は、赤と青に分断された状況を利用して財源を得ようとするが、それはまさに苦肉の策であり、身内を傷つけるようなネガティブキャンペーンに巻き込まれかける。そこには、赤と青ではなく、選挙と市民の分断という現実を垣間見ることができる。 |