高校2年生の剛と拓郎は、長崎県佐世保の沖に浮かぶ島に暮らし、変化のない毎日を送っている。ところがその夏、東京から英世という少女が転校してきたことから、彼らの気持ちが揺れだす。3人のなかに芽生えていく感情は、彼らの関係を微妙なものにし、やがて忘れがたい出来事が起こる。
軸となるストーリーそのものは決して珍しいものではない。しかしこの映画は、見えるものと見えないものをめぐるエピソードを散りばめることによって、それを新鮮なドラマに変えていく。幽霊の存在を信じる剛の叔父は、時間があると廃墟と化したアパートに行き、カメラを構えて幽霊が現れるのを待っている。剛が最初、死神かと思い込む英世の父親はマジシャンであり、観客の前で生身の人間を消してみせる。英世の弟は、他の人間には見えないものを感知しているように見える。
こうしたエピソードは、必ずしも観客に何か信じがたいものを見せるために盛り込まれているのではない。たとえば、廃墟のアパートの闇からは幽霊ではなく、拓郎の母親の密会が浮かび上がってくるように、人にはそれぞれ見られたくない、見せたくないものがある。特に主人公の3人のあいだには、親しいからこそ見せられない、見られたくない、見えていないものがあり、幽霊やマジックのエピソードはそれを暗示し、さり気なく強調していくのだ。
またさらに、この見えるものと見えないものの対比は、自分の目の前で起こっていた出来事が忘れがたい記憶に変わることとも深く結びつく。ずっと剛のそばにいた拓郎は、あたかも人間には見ることが許されないものを見てしまったかのように、剛の前から消え去り、記憶のなかの存在となる。映画のラストで、剛がその事実を英世に伝えようとするとき、彼らは人間を消し去るマジックの舞台の上にいる。そんなギャップが、その場のふたりの存在と感情をいっそう際立たせているのである。
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