この映画では、アデルやアッシェンバッハのエピソードとそのリハーサルが、パラレルに進行し、そして同時に転覆する。一途な想いを体現していたはずのアデル、アッシェンバッハが美しく純粋だと信じていたレイは、男たちにまったく別の顔を見せる。そこで思い出されるのは、アッシェンバッハが図書館から借りていたのが、メルロ=ポンティの『見えるものと見えないもの』だったことだ。この映画では、“見えるもの”と“見えないもの”をめぐって、人物が巧妙に配置されている。見えるものに囚われていた松川やアッシェンバッハは、彼女たちの変貌だけではなく、閉ざされた空間の裏で蠢く見えないものの力によって、足下をすくわれる。
そして逆に、この転覆によって浮上してくるのが、パロディの外に配置されていた主役の池田と助監督の久田なのだ。ふたりは、殺人者の心理に強い関心を持つと同時に、閉ざされた空間の見えない領域に、対照的なかたちで踏み出していく。両性具有的な雰囲気を持つ池田は、久田やアッシェンバッハを誘惑し、久田は成り行きで池田を含めた三人の男たちとキスをする。しかし、彼らの行動の意味が明確になるのは、撮影初日を迎えてからのことだろう。
撮影は、ロケ現場となる農家の都合で、少年が主婦を殺害する場面から始まる。松川に代わって監督を務めるのは久田であり、スタッフの前に現れるのはもはや殺人者らしい少年ではない。柳町監督は、この場面で、強烈なインパクトを持つもうひとつの空間を生み出す。農家に侵入した少年は、必死に逃げようとする主婦を追い詰めていく。スタッフは、農家の庭からガラス戸を隔ててそれを撮影する。ところが、久田の「カット」の声がかかり、ばらけたスタッフが移動を始めても、ガラス戸の向こうでは惨劇が継続されていく。
そして、この瞬間から、外で作業するスタッフと屋内で演じる俳優は完全に分断される。そこにいる人々は、単なるスタッフと俳優ではなくなり、農家は、一線を越える人間ととどまる人間を隔てる境界となるのだ。この撮影初日を迎える前に久田は、合宿から戻った恋人に会い、ふたりの男とキスしたことを涙ながらに打ち明け、もうひとりの男とのキスを見えないものとして胸にしまう。一方、池田はすべてを見えるものにしようとする。だから、久田の「カット」の声は彼には届かない。
『タイクツな殺人者』は、撮影初日の場面しか描かれないが、それだけですでに完成しているともいえる。この映画のオープニングで、長回しに関する薀蓄を傾ける登場人物のひとりが、溝口の『元禄忠臣蔵』では見せ場の討ち入りが省略されていると語る。『タイクツな殺人者』はその逆で、殺人以外のすべてが省略される。かつて『さらば愛しき大地』や『火まつり』で、神話という見えないものにこだわった柳町監督は、見えるものしか求めることができない少年が行う殺人だけを描くことによって、この時代を浮き彫りにしているのだ。 |