要するにこの少年は、「人を殺したらどうなるか実験してみたかった」という動機で人を殺した事実を除けば、決して特殊な人間ではなく普通の高校生であり、ドラマになる要素がない。だから監督の松川は、事実を無視し、リハーサルを通して、殺人者らしい人物、映画らしいドラマを作り上げようとする。しかしそんな彼は、先述した2作品のパロディのなかで失墜していく。そこで筆者が注目したいのが、中條教授が図書館から借りているメルロ=ポンティの『見えるものと見えないもの』のことだ。松川や中條は、見えるものに囚われ、見えないものに足をすくわれる。この映画では、見えるものと見えないものをめぐって、人物たちが巧妙に配置されているのだ。
「僕が以前、台湾にあるエドワード・ヤンの事務所を訪ねたときに、これから撮影に入る『カップルズ』の人物相関図が壁に貼ってあったんですね。あの映画も人物がたくさん出てくるので。それが少し頭に残っていて、シナリオを書く前に相関図を作って、リアリティが失われないぎりぎりのところまで人物が複雑に絡み合うように、線で結んでいったんです。池田は男とも繋がった方が面白いとか、久田は、3人の男たちとボーイフレンドの4人と繋がるとか、集団のなかで全員が何らかのかたちで繋がっていくわけです」
その主演俳優の池田や助監督の久田は、パロディの外に位置し、松川や中條とは逆に次第に前面に出てくる。ふたりは、殺人者の心理に強い関心を持つと同時に、閉ざされた空間の見えない領域に踏み出していく。しかし、彼らの行動の意味が明確になるのは、撮影初日を迎えてからのことだろう。その初日の舞台となるのは、柳町監督の『さらば愛しき大地』が脳裏をよぎるような農家だ。
「実際の現場は農家じゃないし、僕も最初は、周りに畑があるけど、農家ではない家を探していたんです。ただ僕の頭にはすでに、部屋が二つ三つ並んでいて、庭に面して廊下があり、その廊下で逃げる老婆を金槌を持った少年が追いかけ、学生の撮影隊が庭からそれを撮るというイメージがあって、それができる家がなかなか見つからなかった。たまたま水海道にいい家があると聞いて、見にいったら、思い描いていたイメージとは違ったけど、あの農家を見た瞬間、これはいけるという手応えを感じた。血も騒いだ。同じ茨城で、鹿島に風景が似ているし、なんかフラッシュバックするものがあったんですよ」
そんな農家を舞台にした撮影初日、松川に代わって監督を務めるのは久田であり、撮影隊の前に現れるのはもはや殺人者らしい少年ではない。柳町監督はこの場面で、強烈なインパクトを持つもうひとつの空間を生み出す。農家に侵入した少年が、必死に逃げようとする老婆に迫り、撮影隊が、庭からガラス戸を隔ててそれを撮影する。ところが、久田の「カット」の声がかかり、撮影隊がばらけても、ガラス戸の向こうでは惨劇が継続されていく。
「実はシナリオには、あれはない。久田が「カット」と言って、場面が変わると書いてあった。ところが撮影してたら、その「カット」の声が中のふたりには聞こえなかった。それを見ていた僕は、「カット」をかけなかった、もっと回せって。そもそも僕は、「カット」をかけるのが遅いって言われている。ハプニングがあったり、俳優がいい表情することがあるから、なかなか「カット」をかけない。俳優はじりじりするようだけど。あの時もそういうハプニングが起こって、それを生かすための編集をした。学生の撮影隊は、家の中に入れないようにした。中で起きているのは、撮影ではなく、ひょっとすると本当のことかもしれないという錯覚は十分に成立しますよね。僕もあらためて映画は面白いと思った。場所がよくて、俳優がちゃんとやってくれると、現場で計算ができるし、想像を裏切って新しいものが出てくる。だから僕は、できるだけ即興性が発揮できる場所を残して、撮影に臨むようにしてます」
つまり農家は、一線を越える人間と止まる人間を隔てる境界となる。この撮影初日を迎える前に久田は、合宿から戻った恋人に会い、ふたりの男とキスしたことを涙ながらに打ち明け、もうひとりの男とのキスを見えないものとして胸にしまう。一方、池田は、おそらくはすべてを見えるものにしようとする。だから、久田の「カット」の声は彼には届かない。かつて『さらば愛しき大地』や『火まつり』で、神話という見えないものにこだわった柳町監督は、見えるものしか求められない少年が行う殺人だけを視覚化し、それを映画『タイクツな殺人者』とすることで、この時代を浮き彫りにしてみせるのだ。
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