スウィーニー・トッド
The Tale of Sweeney Todd The Tale of Sweeney Todd (1997) on IMDb


1997年/アメリカ/カラー/92分/ドルビーステレオ
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(初出:「キネマ旬報」1999年8月下旬号、加筆)

 

 

時代を象徴する殺人鬼

 

 ジョン・シュレシンジャー監督の「スウィーニー・トッド」は、イギリスで150年以上も語り継がれ、これまでに何度も小説、舞台やミュージカル、映画などの題材になっている殺人鬼の物語を映画化した作品である。そんなふうに様々なかたちで長く語り継がれる物語には、時代の流れや作家の視点などによって、登場人物の性格や物語の内容が変化していく面白さがあるが、この物語の場合も、その原型と現代的な解釈には大きな違いがある。

 この物語の原型では、主人公スウィーニー・トッドは、ロンドンのフリート街に店を構える理髪師で、鋭利な剃刀で客の髭を剃るかわりに喉を掻き切り、金品を奪う。残った死体の肉はミンチにされ、ミートパイの材料にされる。要するに、大衆の好奇心を刺激するような残忍な殺人鬼を主人公にしたグロテスクな物語なのだ。しかし、イギリスの劇作家クリストファー・ボンドの戯曲やそれをもとにしたスティーヴン・ソーンハイムのミュージカルなど、 この物語を世界に広めることになった現代的な解釈では、主人公トッドは必ずしも残忍な殺人鬼ではない。彼は、産業革命で繁栄を極めるヴィクトリア朝の社会のなかで、階級制度が生む権力の乱用や労働者に隷属を強いる工業化などによって、疎外されていく人間を象徴する存在となり、それゆえに復讐に駆り立てられていくのだ。

 そしてこの映画化の場合も、当然のことながら監督が物語をどう解釈し、どんな要素にこだわるのかによってトッド像が変わってくることになる。そういう意味で、作品の中身に話を進める前にちょっと注目しておきたいのが、当初この企画の監督を熱望していたティム・バートンのことだ。結局、彼はスケジュールの都合がつかなかったために監督を断念せざるをえなかったようだが、もし彼が映画化していたら、 おそらくこの現代的な解釈のなかで、特に"疎外"という要素にこだわり、そこから新鮮なイメージを引きだしていたことだろう。ただし彼はカリフォルニアのサバービア育ちであるだけに、イギリスという土壌については、それほど深くこだわることはなかったのではないかと思う。

 もちろんこれは単なる想像にすぎないが、そんなことを考えてみたくなるのも、このシュレシンジャー版の「スウィーニー・トッド」が、ロンドン生まれの監督らしくというべきか、イギリス社会へのこだわりを感じる作品になっているからだ。といってもそれは、先述の現代的な解釈における社会へのこだわりとは違うものだ。この映画の主人公トッドは、社会の犠牲者として描かれてはいないし、復讐に駆り立てられることもない。

 時代は1795年。理髪師トッドは、かつら屋、接骨医、歯科医なども兼ね、フリート街に店を構えている。その人柄は一見温厚に見えるが、常連ではない裕福そうな客がやって来ると、剃刀で喉を掻き切り、地下室で金品を奪う。そして客の遺体は、彼の愛人で、通りの向かいに店を出しているラベット夫人のところに卸す。この夫人が作る特製ミートパイは街で評判となり、店は大繁盛している。 ところが、失踪した宝石商にダイヤをオーダーしていたアメリカ人の顧客が、宝石商探しに乗りだす。彼は、トッドの素行、そして夫人のミートパイの中身に疑問を持つようになり、次第に真相に迫っていくことになる。


◆スタッフ◆

監督
ジョン・シュレシンジャー
John Schlesinger
製作 テッド・スワンソン
Ted Swanson
脚本 ピーター・バックマン
Peter Buchman
撮影監督 マーティン・ファラー
Martin Fuhrer
編集 マーク・デイ
Mark Day
音楽 リチャード・ロドニー・ベネット
Richard Rodney Bennett

◆キャスト◆

スウィーニー・トッド
ベン・キングスレー
Ben Kingsley
ラベット夫人 ジョアンナ・ラムリー
Joanna Lumley
ベン・カーライル キャンベル・スコット
Campbell Scott
アリス セリーナ・ボヤック
Selina Boyack
トム デイヴィッド・ウィルモット
David Wilmot
マンヘイム ピーター・ウッドソープ
Peter Woodthorp
(配給:アルバトロス・フィルム)
 


 このドラマでは、階級制度や機械化産業といった社会的な背景がそれほど強調されることもないし、主人公トッドに疎外の影は薄い。彼がかつて戦争で地獄を体験したらしいという暗示はあるが、そんな過去よりもむしろ、欲望のままに生きているという印象の方が強い。それでは、トッドの原型の物語を再現しているのかといえば、決してグロテスクなイメージによって人々の好奇心を刺激しようとする作品でもない。 トッドとラベット夫人の表と裏の世界をあくまで日常的な視点で描き、グロテスクな物語から現代的なリアリティを引きだしているのだ。

 冒頭でボンドの戯曲やソーンハイムのミュージカルを現代的な解釈として紹介したが、それらは見方によってはもはや現代的とはいえないものになっている。この戯曲やミュージカルが注目を浴びたのは70年代のことだが、その頃と現代とではイギリス社会そのものがまったく変わってしまっているからだ。80年代のサッチャリズム以後のイギリスは、福祉から自由主義経済へと大胆に方向転換し、 アメリカ的な消費社会が拡大し、競争意識の高まりとともに拝金主義がはびこるようになった。そんな社会は、グロテスクでありながらリアルなドラマを生みだす源となる。

 たとえば、カニバリズムという共通点を持つ作品として注目したいのが、ピーター・グリーナウェイの「コックと泥棒、その妻と愛人」だ。強欲な泥棒が牛耳る高級レストランを舞台にしたこの映画は、サッチャリズムを象徴している。サッチャリズムを支えているのは、欲しいものを手に入れるためなら手段を選ばない泥棒であり、その欲望が食べるという根源的な行為を通して描かれる。そして最後には、カニバリズムをたぐりよせることになるのだ。

 あるいは、最近公開されたばかりのガイ・リッチーの「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」と比べてみても面白いと思う。このドラマでは、筋金入りのギャングにコソ泥、上流階級に労働者の若者などが入り乱れ、金の争奪戦を繰り広げるが、手段を選ばない欲望のもとでは誰もが平等であり、凄まじい争奪戦のなかではその道の玄人と素人、階級の違いなどはまったく意味を失っていく。 要するに問題は金があるかないかであって、階級などは在って無いようなものなのだ。それは、トッドと彼の理髪店の椅子に座る客たちの関係にも当てはまる。客たちは、階級や地位に関係なく、剃刀を持った彼の前で無防備になり、彼は、単に金目のものを持っていそうな客だけを血祭りに上げていくわけだ。

 階級制度や工業化が人々を支配する抑圧的な社会では、トッドという個人は疎外される弱者であり、それゆえ復讐に駆り立てられるが、サッチャリズム以後の個人主義社会では、欲望のままに剃刀をふるい、犠牲者の肉からも利益をあげることによって、時代を象徴する存在となるのである。


(upload:2001/03/11)
 

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