ジョン・シュレシンジャー監督の「スウィーニー・トッド」は、イギリスで150年以上も語り継がれ、これまでに何度も小説、舞台やミュージカル、映画などの題材になっている殺人鬼の物語を映画化した作品である。そんなふうに様々なかたちで長く語り継がれる物語には、時代の流れや作家の視点などによって、登場人物の性格や物語の内容が変化していく面白さがあるが、この物語の場合も、その原型と現代的な解釈には大きな違いがある。
この物語の原型では、主人公スウィーニー・トッドは、ロンドンのフリート街に店を構える理髪師で、鋭利な剃刀で客の髭を剃るかわりに喉を掻き切り、金品を奪う。残った死体の肉はミンチにされ、ミートパイの材料にされる。要するに、大衆の好奇心を刺激するような残忍な殺人鬼を主人公にしたグロテスクな物語なのだ。しかし、イギリスの劇作家クリストファー・ボンドの戯曲やそれをもとにしたスティーヴン・ソーンハイムのミュージカルなど、
この物語を世界に広めることになった現代的な解釈では、主人公トッドは必ずしも残忍な殺人鬼ではない。彼は、産業革命で繁栄を極めるヴィクトリア朝の社会のなかで、階級制度が生む権力の乱用や労働者に隷属を強いる工業化などによって、疎外されていく人間を象徴する存在となり、それゆえに復讐に駆り立てられていくのだ。
そしてこの映画化の場合も、当然のことながら監督が物語をどう解釈し、どんな要素にこだわるのかによってトッド像が変わってくることになる。そういう意味で、作品の中身に話を進める前にちょっと注目しておきたいのが、当初この企画の監督を熱望していたティム・バートンのことだ。結局、彼はスケジュールの都合がつかなかったために監督を断念せざるをえなかったようだが、もし彼が映画化していたら、
おそらくこの現代的な解釈のなかで、特に"疎外"という要素にこだわり、そこから新鮮なイメージを引きだしていたことだろう。ただし彼はカリフォルニアのサバービア育ちであるだけに、イギリスという土壌については、それほど深くこだわることはなかったのではないかと思う。
もちろんこれは単なる想像にすぎないが、そんなことを考えてみたくなるのも、このシュレシンジャー版の「スウィーニー・トッド」が、ロンドン生まれの監督らしくというべきか、イギリス社会へのこだわりを感じる作品になっているからだ。といってもそれは、先述の現代的な解釈における社会へのこだわりとは違うものだ。この映画の主人公トッドは、社会の犠牲者として描かれてはいないし、復讐に駆り立てられることもない。
時代は1795年。理髪師トッドは、かつら屋、接骨医、歯科医なども兼ね、フリート街に店を構えている。その人柄は一見温厚に見えるが、常連ではない裕福そうな客がやって来ると、剃刀で喉を掻き切り、地下室で金品を奪う。そして客の遺体は、彼の愛人で、通りの向かいに店を出しているラベット夫人のところに卸す。この夫人が作る特製ミートパイは街で評判となり、店は大繁盛している。
ところが、失踪した宝石商にダイヤをオーダーしていたアメリカ人の顧客が、宝石商探しに乗りだす。彼は、トッドの素行、そして夫人のミートパイの中身に疑問を持つようになり、次第に真相に迫っていくことになる。
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