だが現代では、“没場所性”という言葉に表われているように、この図式は失われている。あるいはここで、政治学者ジョン・グレイの『グローバリズムという妄想』(石塚雅彦訳/日本経済新聞社/1999年)のこんな記述を思い出してもいいだろう。
「後期近代の資本主義は人間をハイテク刑務所に収容し、職場や公道をビデオ監視カメラで見張るかもしれない。しかし、人間を官僚主義の鉄のおりや労働分業の狭い特殊分野に永久に閉じこめることはない。閉じこめるのではなく、人間を断片化された現実と意味のない選択の氾濫の中に放り出すのである」
『モダン・ライフ』では、消えゆく農民たちを見つめながら、実は彼らが持つ確信を通して私たちが見られている。「断片化された現実と意味のない選択の氾濫」のなかに放り出された私たちは、自己もまた断片化され、意味のない選択の対象となり、乖離しつつある。だから外部の空間に統一性のある風景を見出すことが不可能でも、内面に風景を構築していかなければならない。
もちろん『ジャライノール』の主人公たちの状況は、『モダン・ライフ』とは違う。彼らの世界は、アモス・オズの言葉に当てはめるなら、「イデオロギーが支配する半世紀」に近く、ほぼ間違いなく次の段階に移行することなく消え去ることになる。但し、支配とはいっても、会合で党幹部らしき人物が仕事中の飲酒を注意する程度で、すでにかなり箍が弛んでいて、主人公と風景の間にイデオロギーが介在しているようには見えない。彼らは風景に馴染み、そんな生活が淡々とつづいていくような印象を受ける。だから彼らの日常は、『モダン・ライフ』に近い。
しかし、ふたりの生活や関係に変化が訪れる。ある日ジューが、30年働いた炭鉱を去り、娘夫婦のもとに行く決意をする。これまでいつも彼と一緒だったリーは、そんなジューを追って旅に出る。そこで、時間の流れや空間の意味も変化する。だがそれは、映画が終わろうとするときに気づくことだ。
ジューは、リーを突き放したり、自分の時計をくれてやったりして、何とか追い返そうとするが、彼はついてくる。そして車で迎えにきた娘夫婦と合流したジューは、諦めてリーを受け入れようとする。だが、リーはそんなジューに甘えることなくきびすを返す。そこには、風景と人間の関係をめぐる境界のようなものを見ることができる。
ジューが妹夫婦の車に乗り込んだときから、彼と一体になっていた風景は記憶に変わっていく。彼が向かう先には、断片化された現実と意味のない選択が待っているかもしれない。一方、リーは結界のなかにとどまる。ふたりの旅の時間は、日常と記憶の中間にあり、そこで彼らはお互いに他者を通して風景と繋がり、他者と風景が分かち難いものとなる。
チャオ・イエ監督の物語の止め方は絶妙だ。リーはたとえ炭鉱に戻っても仕事には間に合わないだろうが、結末はもはやそういう次元にはない。彼自身が風景に溶け込み、消え去るようにも見える。一方、ジューの時間は、風景が記憶に変わる寸前で途切れる。それがなんともいいがたい余韻を醸し出すのだ。 |