この映画を観ながら、ビル・フォーサイス監督の『ローカル・ヒーロー』のこと思い出していた。そういう連想をするのはどうやら筆者だけではないらしい。プレスのインタビューによれば、プリオ監督は、『ローカル・ヒーロー』や『フル・モンティ』などのイギリス映画の影響があるかとよく聞かれるらしい。ちなみに彼は、どちらの作品もこの映画を撮った後で観たそうだ。
但し、筆者が『ローカル・ヒーロー』を連想したからといって、『ローカル・ヒーロー』のように素晴らしい映画だと思ったわけではない。ドラマの設定とか雰囲気に似たところがあるだけで、映画としては残念ながらかなり劣るといわなければならない。
何がそれほど違うのか。たとえば、『ローカル・ヒーロー』は、製油所を建造するための用地買収というゴールに向かって物語が動き出すが、主人公のなかに次第に異なる感情が芽生え、自分の人生を見直し、最終的にはゴールさえもが変わっていく。
この映画の場合、当初のゴールは、プラスティック工場の誘致だが、それはずっとゴールでありつづける。島民たちは、突き詰めれば、そのゴールに向かって遠回りしているに過ぎない。
彼らは、医者を島に定住させるために、次から次へと嘘を繰り出し、たいへんな労力を注ぎ込む。医者が大好きなクリケットのチームを作り、医者を一日中、盗聴、監視してデータを収集し、釣りに出れば大物がかかったように見せかける。人口が工場誘致のネックになれば、調査官の目が届かないところで大移動を繰り広げ、たくさんの人間がいるように見せかける。
それだけの労力を注ぎ込むくらいなら、自分たちで新たな産業でも起こせそうな気にもなるのだが、彼らのゴールは揺るがない。限られた時間であれば、苦労も厭わないということらしい。
彼らのゴールが変わらないということは、ドラマが深くなっていかないということだが、どうしてそれですんでしまうのかは最後にわかる。この島民たちにとって幸福とは何かといえば、漁業で食べられていた時代にわが家でやっていたことと同じことができることなのだ。
そういう意味でも、彼らのゴールはあらかじめ決まっているから、苦境を通して新たな幸福を見出す必要がない。となれば当然、ドラマが深くなる必要もないわけだ。 |