[ストーリー] 1988年、ピノチェト政権末期の南米チリ。長きにわたるアウグスト・ピノチェト将軍の軍事独裁政権に対する国際批判の高まりの中で、信任延長の是非を問う国民投票が実施されることになり、ピノチェト支持派「YES」と反対派「NO」両陣営による1日15分のTVコマーシャルを展開する一大キャンペーンが行われる。
フリーの広告マンとして忙しい日々を送っているレネ・サアベドラのもとに、かねてから家族ぐるみの付き合いがある友人ウルティアが訪ねてくる。ウルティアは反独裁政権の左派メンバーのひとりで、国民投票の反対派陣営の中心人物であり、広告やCM制作の責任者として新進気鋭のクリエーターであるレネに白羽の矢が立ったのだ。
政権が対外的に平等をアピールしているだけの出来レースと、気乗りしないレネだったが、次第にプロの広告マンとしてのプライドをかけて制作に取り組むようになっていく。はじめ、彼の作る資本主義の象徴のようなCMは独裁政権下で弾圧をうけ迫害されてきた党員たちから非難されるが、明るい未来、喜び、そして希望を謳いあげる斬新でウイットに富んだ言葉や映像は国民の心をつかんでいく。
南米チリでは1988年に、ピノチェト軍事独裁政権に対する国際的な批判が高まるなか、信任延長の是非を問う国民投票が行われることになり、政権支持派「YES」と反対派「NO」の間で1日15分のTVコマーシャルによるキャンペーン合戦が繰り広げられた。
パブロ・ラライン監督がピノチェト独裁政権を題材にして作り上げた三部作の完結編『NO』では、この実話が独自の視点から描き出される。
主人公は「NO」陣営のPRを任されたレネ・サアベドラ。この多忙なフリーの広告マンが作る資本主義の象徴のようなCMは、これまで弾圧されてきた左派の指導者たちから激しい批判を浴びるが、明るい未来を謳う映像は国民の心をつかんでいく。
この映画を観ながら筆者がすぐに思い出したのは、社会学者トッド・ギトリンが書いた『アメリカの文化戦争』のなかにある以下のような記述だ。
「19世紀と20世紀を通じて、左翼は人類の共通性を信じ、右派は階級、国家、人種間の基本的な違いを前提にしていた。(中略)しかしながら、今日では共通の人間の言葉で語るのは右派の人間である。彼らがグローバル・マーケット、グローバルな自由を云々する時、かつて普遍主義者が語った言葉の響きが思い起こされる。それに対して、左派を自認する者は、普遍的に人類を語ることができるということを疑ってかからねばならなくなった」 |