ゲイリー・オールドマンの初監督作品『ニル・バイ・マウス』については、彼のファンとしてそれ相当の期待はしていたつもりだったが、実際に作品を観て、ここまで徹底して妥協を排し、自己の世界を追求した力作になっているとは思わなかった。まず映像にみなぎる力に圧倒され、それから彼の世界に引き込まれた。
『ニル・バイ・マウス』では、サウス・ロンドンの労働者階級の家庭に生まれ育ったオールドマンの体験をベースに、ある労働者階級の家族の生活が描きだされる。そこから見えてくるのは、失業やアルコールへの依存、麻薬中毒、家庭内の激しい暴力などの苛酷な現実である。
この映画がカンヌ映画祭で上映されたときには完全な拒絶反応を起こした人たちもいたということだが、もしこの作品を単にリアリズムの映画ととらえ、自分たちとは縁遠い世界の生々しい現実描写に辟易したのだとしたら、それは大きな間違いと言わなければならないだろう。
これは、リアリズム以前にまず何よりもオールドマンが子供の頃の記憶について考えをめぐらす映画である。但し必ずしもオールドマン自身の本当の記憶というわけではなく(彼の父親は、アル中ではあったが母親に暴力を振るうことはなく、オールドマンがわずか7歳のときに家を出てしまったという)、彼が作りあげたフィクショナルな記憶である。
彼がこの映画で描くのは、まず家庭のなかに起こった出来事が子供の目にどのように焼き付けられ、その記憶が何十年も経った後でどのように甦ってくるかということだ。つまり、この映画には、記憶をめぐってふたつの眼差しが交錯している。
そのふたつの眼差しのひとつは、主人公夫婦の娘ジャネットのものである。この映画が決して子供を主人公にした映画ではないにもかかわらず彼女の存在が不思議と際立つように感じられるのは、オールドマンが、彼女のような年令のときの記憶というものに深くこだわっているからだ。それは言葉をかえれば、目の前で起こっていることは間違いなく脳裏に刻み込まれているが、本当に何が起こっているのかはまだ理解していないということだ。
そしてオールドマンは、もうひとつの眼差しでそんな記憶を振り返る。この映画の映像が時としてベールの向こう側を覗き見るような印象を与えるのは、まさにそんな暗示といっていいだろう。
しかもふたつの眼差しの狭間に浮かぶ時間はさらに多くのことを語りかけてくる。この狭間の時間は暗黙のうちに、以下のようなことを物語る。子供の頃のこのような記憶は、物心がつくようになればその意味を理解できるようになるが、その頃には自分がすでに不条理な大人の世界に踏み込んでいて振り返って考える余裕すらなくなっている。
この映画は、そんな記憶をめぐる考察を経てはじめてリアルなドラマへとたどり着く。オールドマンは、この家族の葛藤を掘り下げ、自分の世界を見極めようとする。そんな彼に大きな影響を及ぼしているのは、ジョン・カサヴェテスの作品に違いない。
あくまで個人的な世界を追求する作家にはカサヴェテスに影響されている作家が少なくないが、この映画でオールドマンはカサヴェテスのひとつのスタイルを完全に自分のものにしている。カサヴェテスは、個人という存在をどこにも逃げ場がないところまで追いつめ、とてつもなく孤独な人と人の絆を浮き彫りにする。 |