オルドリッチはカサヴェテスが評価している監督であり、願ってもない話だったはずだ。しかし、カサヴェテス作品のスタッフであるアル・ルーバンによれば、彼は戦争映画には出たくなかった。それでも承諾したのは、スタジオに借金があり、法廷に引きだすと脅かされたからだったという。しかし結局、カサヴェテスはオルドリッチとの撮影を楽しみ、この作品でアカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。
一方、『ローズマリーの赤ちゃん』の撮影現場では、ポランスキーとカサヴェテスの間に対立が起こった。彼らの演出に対する考え方が正反対だったからだ。ポランスキーは、俳優が監督の指示通りに動き、話すことを要求した。これに対して、カサヴェテスは、俳優が監督の顔色を伺うような関係を壊し、脚本に対する俳優それぞれの解釈を引き出そうとする。そのためには、脅かしたり、騙したりすることも厭わない。
そんなふたりの美学の違いは、その発言に現われている。ポランスキーはこう批判する。「カサヴェテスは監督ではない。映画を作っただけだ。彼が『アメリカの影』を作ったように、誰もがキャメラを手にし、映画を作ることができるんだ」。一方、カサヴェテスは後にこう語っている。「ポランスキーは芸術家だが、それでも『ローズマリーの赤ちゃん』を芸術と認めるわけにはいかない」
当時、カサヴェテスは、昼間に『ローズマリーの赤ちゃん』の現場で仕事をし、その間にルーバンが『フェイシズ』の編集を進め、夜にその結果について話し合っていた。つまり、ポランスキーと対立したカサヴェテスは、自分の答を生みだしつつあったわけだ。そして『フェイシズ』は成功を収める。カサヴェテスはアメリカの配給会社から25万ドルと利益の歩合を得られることになり、この映画は、アカデミー賞で、オリジナル脚本賞、助演男優賞、助演女優賞の三部門にノミネートされた。
しかし、彼の悪戦苦闘はまだつづく。イタリアの投資家の金で作った『ハズバンズ』(70)は、配給をめぐってコロンビアともめてしまう。再びメジャーのオファーに応えて監督した『ミニー&モスコウィッツ』(71)は、決められた期間と予算の枠内で作品を完成したにもかかわらず、ユニヴァーサルが十分な宣伝をせず、映画館も限定されていたため、注目されなかった。
ちなみに、ユニヴァーサルは、主演のジーナと逆さまのシーモア・カッセルを組み合わせたポスターを作ったが、それがどうにも許せなかったカサヴェテスは、結婚の場面のスチルを使ったポスターを自分で作り、ニューヨークで映画が公開されるときに、シーモアとともに電話ボックスや出入口にそれを張って回った。
カサヴェテスは、次の『こわれゆく女』(74)の企画を様々なスタジオに持ち込むが、どこにも受け入れられなかった。あるスタジオの重役は、「狂った中流の女なんか誰も観たがらない」と答えたという。そこで、予算の半分はカサヴェテスが自宅を抵当に入れて捻出し、残りは『ハズバンズ』でファミリーの一員となったピーター・フォークが負担することになった。彼は、『刑事コロンボ』で成功を収めていたからだ。
しかし、映画が完成しても、配給会社は見つからなかった。カサヴェテスは、フェイシズ・ディストリビューションを設立し、自主配給に踏み切る。彼は、この入魂の一作を公開にこぎつけるまでに消耗しきり、「ぼくは自殺寸前だった」とも語っている。結局『こわれゆく女』は、高い評価を獲得するが(ジーナとカサヴェテスはそれぞれ、アカデミー賞の主演女優賞と監督賞にノミネートされた)、それで彼の悪戦苦闘が終わったわけではなかった。
『こわれゆく女』の収益で作った『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』(76)は、カサヴェテスの創作の苦悩を、フィルム・ノワールのドラマに投影した作品だが、観客に理解されず、ロスでは一週間で公開を打ち切られた。
『オープニング・ナイト』(79)の資金は、『パニック・イン・スタジアム』(76)の出演料など、カサヴェテスが独力で調達したが、途中で資金難に陥る。この映画に出演したゾーラ・ランパートによれば、リハーサルの合間に、カサヴェテスが彼とジーナの家を再び抵当に入れる話を持ちだし、ジーナが「ああ、ジョン、家はだめ、家はだめよ」と嘆いたという。
結局彼は、映画を完成させるために他の映画の仕事をしなければならなかった。さらに、この映画も配給会社が見つからず、自主配給するしかなかったが、公開された作品が認知されることはなかった(アメリカでの興行は惨敗だったが、この作品で、ジーナ・ローランズは、ベルリン国際映画祭の主演女優賞を受賞した)。
カサヴェテスは、インディペンデント映画の先駆者とみなされるが、最初からそんなヴィジョンを持っていたわけではないし、往年のハリウッドへの愛着もあった。自分の作りたい映画を作る自由を手にするための苦闘が、彼を先駆者にしたのだ。 |