李康生の記念すべき初監督作品『迷子』には、蔡明亮という異才の遺伝子を引き継ぐ新鋭の閃きが随所に見られる。
幼い孫を探して公園のなかを走り回る祖母をとらえた長回しは、ドキュメンタリーのような緊張感を生み出し、われわれを映画の世界に引き込む。そして、その祖母と、もうひとりの主人公である中学生の少年が、映画のなかで様々なコントラストを生み出していく。
祖母は、公園から町中へと行動範囲を広げ、バイクの運転手や大根餅の行商人まで巻き込んでいく。少年は、照明を絞った暗いインターネットカフェにこもり、カフェ仲間が戻ってこないことに気づいても、行動を起こそうとはしない。見えない世界を信じる祖母は、亡夫に救いを求め、自分がいかに孤独であるかを告白する。一方、少年は、自分のことしか頭にないが、彼の視野がゲームの画面で埋め尽くされたときに、ふと孤独を感じる。さらに、祖母が墓前で燃やす紙のお札と、祖父の存在の痕跡を示す引き裂かれた新聞も、このコントラストに加えることができるだろう。
祖母と少年は、対照的な軌跡を描いて、同じ地平にたどり着く。迷子になったのは、幼い孫や祖父ではなく、彼らの方だった。しかし、このドラマは、それで完結してしまうわけではない。筆者が注目したいのは、このドラマに登場してもおかしくはないのに、まったく姿を見せない人たち、すなわち祖父母と孫たちの間にいる両親の存在だ。
実は筆者はこの映画を観ながら、同じ台湾の監督である侯孝賢の初期の作品のことを思い出していた。『童年往事』や『恋恋風塵』では、祖母や祖父と彼らの孫にあたる子供や若者との特別な繋がりが浮かび上がってくる。そして、両親が登場することはあっても、祖父母や孫とは対照的なイメージで表現される。祖父母や孫には動的なイメージがあるのに対して、両親は静的なイメージで描かれるのだ。しかし、だからといって、単純に静に対して動が際立つということにはならない。
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