ジュリアン・シンプソンの『ザ・クリミナル』は、20代の監督の長編デビュー作らしく、荒削りなところもあるが、随所に個性的な閃きが見られる。まずこの映画には、モノクロのフィルム・ノワールの陰影に満ちた世界を、カラー作品で表現しようとする試みがある。そのダークな映像がデイヴィッド・フィンチャーの作品を連想させるのも、それほど不思議なことではない。この映画の撮影を手がけたのは、
かつてフィンチャーの『エイリアン3』でセカンド・ユニットの撮影を担当したニック・モリスであるからだ。
さらにこの映画では、ドラマの流れを寸断し、前後に入り組ませることによって空白の時間を作り、観客を引き込もうとする。また、汚い言葉に満ちた台詞のやりとりにも、様々なユーモアや皮肉が盛り込まれている。たとえば、覗き部屋の場面における警官たちの無線でのやりとりや、ホームレスの娘グレイスが主人公を救ってから、彼女がやはり”新聞は信用できない”という結論に至るまでのやりとりには、ニンマリとさせられる。
しかしこの映画で何よりも印象に残るのは、”権力”というもののとらえ方である。そこにはイギリス的な視点がある。この映画は、ダニー・ボイルのデビュー作『シャロウ・グレイヴ』と比較してみると興味深い。
サッチャリズム以後のイギリス社会では、極端な上昇志向や拝金主義が蔓延し、拡大する消費社会の背後ではドラッグのマーケットも膨らみ、それが見えない権力を作り上げる。『シャロウ・グレイヴ』の物語にはそんな現実が反映されている。
サッチャリズム全盛の時代に育ったこの映画の主人公たちは、上昇志向の塊で、自ら未来を選び優越感にひたっている。しかし、彼らがルームメイトに選んだ男が死亡し、
男がドラッグに絡む大金を所持していたことが明らかになると、世間を見下ろしていた彼らの化けの皮がはがれる。その後のドラマからは現代の権力が見えてくる。
大金を奪い合う主人公たちと、彼らにじわじわと迫る金の本当の持ち主には何の関係もない。金の持ち主は主人公たちがどんな人間であるかということにまったく関心がないし、金を着服した主人公たちも、持ち主の正体を知ってもほとんど意味がない。ただ宙吊りになった金という権力の源が、双方の人間を動かし、不条理な状況を作り上げていくだけなのである。 |