その凄まじい閉塞感は、風景をも侵食していく。悟がコンビニに向かう道は、開かれた空間であるはずなのに、それを感じない。藤沢がワイナリーを取り巻く山々を一望できる高台に悟を案内する場面でも、彼らが生きている世界の違いが際立つ。さらに、ワインの熟成の時間と昨日も明日もない悟の時間のコントラストも印象に残るだろう。
しかし、そんな彼の生活に変化が起こる。これまで悟は、息子を何とかしようとする母親に対して言葉ではむかうだけだったが、ついに暴力を振るってしまう。それは彼がさらに悪い方向に踏み出してしまったことを意味するように見えるが、必ずしもそうではない。
竹馬監督が見つめているのは、悟の身体と感情のずれだ。もちろん本人はそれを自覚などしていない。だが、母親を憎んでいるわけではないのに、感情が暴走したことで、自分の今をわずかだが認識するようになる。彼の揺れは、自分の部屋からそっと母親の様子をうかがったり、食事に手をつけたり、電話の音に敏感に反応して出るといったささいな行動に表れる。
だが、竹馬監督は、ダルデンヌ兄弟が『ロゼッタ』で、少女ロゼッタを生か死かというところまで追い詰めたように、悟をぎりぎりの選択を迫られる場所まで追い詰める。悟は予想もしない悲劇に見舞われる。そして今度は、目の前の現実に対して感情が追いつかないために、ひとりでもがくことになる。
その悟ほど出番は多くないが、この映画は藤沢の物語でもある。彼は孤立する悟に手を差し延べようとするが、必ずしも善意からそういう行動をとるわけではない。彼は過去を背負い、そのために眠れないこともある。
突き詰めれば藤沢は自分のために悟に執拗につきまとい、それがこの映画のクライマックスを忘れがたいものにする。彼らはひたすら走る。そこには何かを考える余裕などない。そしてやがて悟の身体の震えと心の震えがひとつになる瞬間が訪れる。
これは映画を観てから知ったことだが、web-DICEに取り上げられていた竹馬監督の発言には驚かされた。「僕、元々役者だったんです。ダルデンヌ兄弟の『ある子供』という映画を観て、自分もこんな映画に出たいと思いました。でも日本には無い。じゃあ作ってしまえと思い、この映画を創りました。元々自分は日本にしかない社会問題を映画にしようと考えていました。そして一番身近だったのが、ひきこもりやニートの問題だったのです」
彼は監督・脚本・編集・プロデュース・主演をこなし、独学でこの映画を作り上げた。悟の演技も真に迫っていた。これは凄いことだ。
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