息もできない
Breathless Breathless (2008) on IMDb


2008年/韓国/カラー/130分/ヴィスタ/ドルビーSR
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(初出:「CDジャーナル」2010年4月号、EAST×WEST10、若干の加筆)

 

 

ふたりは傷つきもがきながら
“軍事主義”を乗り越えていく

 

 ヤン・イクチュン監督の長編デビュー作『息もできない』では、荒っぽい取り立て屋のサンフンと孤独な女子高生ヨニの心の触れ合いが描かれる。主演も兼ねるヤン・イクチュンとヨニ役のキム・コッピが見せる生身の人間の痛みや哀しみ、怒りには心を揺さぶられるが、深い感動を生み出す要因は決してそれだけではない。

 この映画は、路上で男が女を殴っている場面から始まる。そこに現れたサンフンは男を殴り倒す。だが、女を助けたかに見えた彼は、彼女に唾を吐き、頬を叩き、殴られてばかりでいいのかと罵る。この導入部は、サンフンとヨニの出会いの伏線となる。路上でサンフンが吐いた唾が、そこを通りかかったヨニの胸にかかり、ひるむことなく文句をつけた彼女はサンフンに殴られて気を失う。そして、ヨニが意識を取り戻したとき、彼はまだそこにいて、ふたりの奇妙な交流が始まる。

 こうした男と女に対する監督の視点と表現は、主人公たちの背景が見えてくるに従って、深い意味を持つことになる。刑務所から出所してきたサンフンの父親は、かつて母親に暴力をふるいつづけ、母親とサンフンの妹を死に追いやった。ヨニの父親はベトナム帰還兵で、精神的な後遺症に苦しみ、妄想にとらわれて暴力をふるい、家族は崩壊寸前の状況にある。

 この映画が描く家族の現実は、韓国の歴史と無関係ではない。朴正煕(パク・チョンヒ)政権は、60年代後半から70年代初頭にかけてベトナム派兵を行うことで特需を生み出し、韓国は奇跡といわれる経済発展を成し遂げた。そして、朴正煕とその後の軍事政権を支えた“軍事主義”は、社会や家族、そして男女の立場に多大な影響を及ぼしてきた。

 『韓国フェミニズムの潮流』に納められたクォン・インスクの「我われの生に内在する軍事主義」には、以下のような記述がある。軍事主義とは、「集団的暴力を可能とする集団が維持され力を得るために必要な、いわゆる戦士としての男らしさ、そしてそのような男らしさを補助・補完する女らしさの社会的形成とともに、このような集団の維持・保存のための訓練と単一的位階秩序、役割分業などを自然のことと見なすようにするさまざまの制度や信念維持装置を含む概念」なのだ。

 その軍事主義は、朴正煕大統領暗殺事件を題材にしたイム・サンス監督の『ユゴ 大統領有故』や軍隊生活を描いたユン・ジョンビン監督の『許されざるもの』でもテーマになっている。だが、この『息もできない』では、政治や軍隊の世界ではなく、日常生活のなかで、内面化された軍事主義が炙り出される。

 サンフンは、父親から軍事主義的な男らしさや暴力を引き継いだ。しかし、彼の心の奥には、殴られる母親や妹の痛みが潜んでいる。だから、導入部のエピソードが物語るように、殴られっぱなしの女に苛立つ。さらに、彼の仕事ぶりにも注目すべきものがある。取り立て屋は、ホモソーシャルな連帯関係によって排他的な集団を作り上げるが、彼はそんな連帯関係に反発するかのように弟分たちに苛立ちをぶつける。


◆スタッフ◆
 
監督/脚本/製作
/編集
  ヤン・イクチュン
Yang Ik-june
撮影 ユン・チョンホ
Yun Jong-ho
編集 イ・ヨンシュン
Lee Yuen-jung
音楽 インビジブル・フィッシュ
The Invisible Fish
 
◆キャスト◆
 
サンフン   ヤン・イクチュン
Yang Ik-june
ヨニ キム・コッピ
Kim Kkobbi
ヨニの弟ヨンシェ イ・ファン
Lee Hwan
マンシク チョン・マンシク
Jeong Man-sik
ファンギュ ユン・スンフン
Yun Seung-hun
サンフンの父
スンチョル
パク・チョンスン
Pak Jeong-sun
サンフンの甥
ヒョンイン
キム・ヒス
Kim Heui-su
-
(配給:ビターズ・エンド)
 

 つまり彼は、暴力的な衝動に駆られると同時に、自分に植え付けられた男らしさを振り払おうともがいてもいる。そして、そんな男が、厳しい生活のなかで男らしさに抵抗しているヨニに出会い、心を動かされていく。朴正煕政権下の経済成長は漢江の奇跡と呼ばれたが、傷ついたふたりは、人けのない夜の漢江の岸辺で肩を並べ、静かに涙を流す。

 サンフンとヨニは、気づかぬうちに彼らを呪縛している軍事主義と向き合い、身も心もぼろぼろになりながら、それを乗り越えようとするのだ。

《参照/引用文献》
『韓国フェミニズムの潮流』チャン・ピルファ、クォン・インスク、他●
西村裕美編訳(明石書店、2006年)

(upload:2010/05/21)
 
 
《関連リンク》
ユン・ジョンビン 『悪いやつら』 レビュー ■
ユン・ジョンビン 『ビースティ・ボーイズ』 レビュー ■
ユン・ジョンビン 『許されざるもの』 レビュー ■
イム・サンス 『ユゴ 大統領有故』 レビュー ■

 
 
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