『フィオナの海』は、ジョン・セイルズ監督のこれまでの作品を知る人には、意外な展開のように思えるかもしれない。セイルズといえば、アメリカ社会のなかで、人種や階層などの境界や歴史の影の部分を見つめ、常にもうひとつのアメリカというものを描きだしてきた監督だ。
ところがこの「フィオナの海」の舞台はアイルランド北西部、灰色の海と切り立った断崖といった自然がそのままの姿をとどめる土地である。しかも映画は、アザラシの妖精伝説をモチーフに、
フィオナという少女が海に消えた弟を追い求め、神話的な世界に踏みだしていくファンタジックな作品なのだ。
しかしこの映画には、確かにセイルズらしい視点がある。但しそれは、ファンタジックな作風のなかにアイルランドとイギリスをめぐる歴史的な背景がきっちり盛り込まれているといったことではない。
筆者がセイルズの近作を観ていていつも思いだすのは、インディーズ映画ブームの火付け役の一本ともなった彼の『ブラザー・フロム・アナザー・プラネット』の冒頭である。
この映画は、自分の星で迫害を受けた異星人が地球に逃げてくるところから始まる。宇宙船が不時着するのは、かつて移民の窓口となっていたニューヨークのエリス島。そこで彼が、移民局の壁に手を触れると、叫び声や泣き声が頭のなかに入り込んでくる。この異星人は、壁にしみ込んだ移民たちの声を聞く能力を備えているのだ。
この能力は、セイルズの資質そのものを想起させる。つまり彼は、歴史や社会に埋もれた声に耳を傾け、自分の世界を構築することによって、一面的な世界の向こう側にもうひとつの世界を切り拓くのである。彼の作品はとかく社会的と見られがちだが、筆者はそれはあくまで結果であって、その本質はいま書いたようなところにあるのではないかと思う。
『フィオナの海』の少女は、この映画のなかでまず何よりも、誰も真剣に関心をはらわなくなってしまった言葉に熱心に聞き入る。それは祖父の昔話であり、変わり者ということで誰も相手にしない彼女の父の従兄弟が語るアザラシの妖精セルキーの物語である。
そして彼女は、神話的な世界に踏み込むと同時に、神話をこの世界に具現化していく。そんなドラマが、大げさでも何でもなく、ひどく自然なことのように見えてしまう。そこにセイルズらしさが滲みでているのである。
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