ロバート・ベントン監督の『白いカラス』の主人公コールマン・シルクは、ユダヤ人で初めて古典学の教授となり、さらに学部長として大胆な改革を行い、三流大学を一流に変えた立役者だったが、講義中に発した一言ですべてを失う。彼は、欠席が続く二人の学生について、「彼らは幽霊(spook)なのかな?」と発言した。
ところが、学生がたまたま黒人だったために、その言葉が差別的な表現ととられ、抗議の声が上がり、教授会で糾弾される。激怒した彼は大学を辞め、妻は心労がたたってあっけなくこの世を去ってしまう。
孤立するコールマンは、ふたりの人物に出会い、その関係を通して彼の秘密が次第に明らかになっていく。ひとりは、この物語の語り手で、コールマンによって隠遁生活から引きずり出され、友人となる作家のネイサン。もうひとりは、71歳の元教授にとって最後の恋の相手となる34歳のフォーニア。義父の性的虐待、ベトナム帰還兵の夫の暴力、子供の事故死という悲惨な過去を背負う彼女は、執拗につきまとう夫に脅かされながら、清掃の仕事で生計を立てている。
この映画は、クリントン大統領の“不適切な関係”が全米の注目を集める98年の夏に始まり、ドラマにはその話題が蔓延している。大学のキャンパスでは、無責任な意見が飛び交っている。コールマンが初めてネイサンの家に現われるときには、テレビから大統領の釈明演説が流れ、彼が路上で立ち往生するフォーニアに遭遇するときには、カーラジオから大統領の証言の真偽を検証する番組が流れている。
フィリップ・ロスの原作には、こんな記述がある。「国会、新聞、そしてネットワーク上など、スタンドプレー好きの独善的な連中――人を非難したり、嘆いたり、罰を与えたりしたくてたまらない輩――が至るところに現われ、声を張り上げて説教を始めた。(中略)彼らはみな、浄化という厳格な儀式を遂行したくてたまらなかった」
コールマンは、そんな浄化の標的となる。講義中に発した一言だけが、政治的に正しいかどうかという短絡的な基準で判断され、人種差別主義者のレッテルを貼られる。そして今度は、老人が欲に溺れ、無学で不幸な女を弄んでいると中傷される。ひとりの人間の存在や物語は無視され、画一的な制度のもとで平板化していく。しかしこの映画では、そんな社会状況のもとで、まったく次元の違うもうひとつの浄化が進行していく。
この浄化には、バイアグラという現代の産物が一役買っている。セックスによってコールマンのなかには50年前の恋が甦る。フォーニアが、家族から拒絶され、自分をカラスに見立てることで人間の血すら否定する女であるなら、彼は、あまりにも辛い恋の結末によって家族を拒絶し、血を否定し、幽霊になった男なのだ。浄化とは、そんな男がもう一度人間になろうとすることを意味する。
さらに、この物語の語り手が、コールマン本人ではなく、ネイサンであることにも重要な意味がある。コールマンの秘密を知らない彼は、世間に蔓延する浄化とコールマンのなかで進行する浄化の狭間で、人間の表層にとらわれてしまうか、そこに何かがあることを感じとれるか、その想像力が試されているのだ。
一方、ジョン・セイルズ監督の『カーサ・エスペランサ』は、内側ではなく外部からアメリカをとらえ、画一的な制度と人間の想像力を見事に対置してみせる。この映画の主人公は、養子を求めて南米のとある国に滞在している6人の女たちだ。
アメリカの各地からやって来た彼女たちは、養子縁組の申請が受理されるのを待ち望んでいるが、手続きは遅々として進まない。同じホテルに泊まり、毎日顔を合わせ、食事をし、気の合う相手と行動をともにするうちに、彼女たちにはお互いの感情や苦悩、秘密が見えてくる。
しかし、この映画が描くのは、彼女たちの内面だけではない。彼女たちを取り巻く世界の現実も浮き彫りにしていく。彼女たちが金で養子を得るという希望は、南北の経済的な格差に支えられている。赤ん坊を預かる聖マルタ園には、若気の至りで妊娠した娘とその母親が現われ、娘はお腹の子を養子に出す決意をする。養子になる機会もなかった子供たちは、ストリートで生活している。
主人公たちのガイドになった男は、彼女たちの目的を知ると、赤ん坊はこの国最大の輸出品だとあっけらかんと言ってのける。養子縁組を扱う弁護士は、主人公たちが滞在するホテルの女性経営者の兄であり、手続きに時間がかかるほどホテルは潤うことになる。その女性経営者の息子は、帝国主義に迎合し、赤ん坊の売買に加担する母親に強く反発している。
そして、こうした現実を意識したとき、6人の主人公のなかでも、特に際立ったコントラストを見せるのが、ナンシーとアイリーンというふたりの存在だ。 |