ジム・ジャームッシュのよきパートナーであるサラ・ドライヴァー。彼女にとって、『スリープウォーク』以来7年振りの監督作品になる『豚が飛ぶとき』は、誰が見ても心温まるファンタジーだと思えることだろう。決して複雑でも難解でもない。しかしこの映画の映像と音楽に目を凝らし、耳をそばだてると、そこにもうひとつの物語が見えてくる。
この映画の主人公は、時代の流れに乗ることができず、家に閉じこもり、希望のない退屈な日々を送る元ジャズマンのマーティ。ところがある日、ひょんなことから彼の前に、幽霊が現れる。それは、町にあるアイルランド系のパブエリンの薔薇≠フマダムで、ずっと前に他界したリリーの幽霊だった。彼女と行動をともにするうちに、マーティは彼女が病死したのではなく、
夫に殺されたことを知る。そして、パブで働くダンサーとともに、彼女の恨みをはらすことに協力するうちに、彼はダンサーと心が通い合うようになる。
これはひとつ間違えば、最近はやりのハリウッド映画になりそうな筋書きだが、映像と音楽が紡ぎ出すもうひとつの物語が、映画を独特の詩情が漂う作品にしている。まず注目したいのは、ジャズとアイルランド音楽が作る印象的なコントラストだ。
主人公は、セロニアス・モンクのポスターを壁に張り、愛犬にはドルフィーという名前をつけている。だらだら寝てばかりいる彼が見る夢といえば、自分が前衛的な演奏を繰りひろげて、悦に入る光景であったり、モンクの曲をバックに空を飛び、眼下の眺めが次々に変化していく光景である。一方、かつてエリンの薔薇≠ナアイルランド民謡を歌っていたリリーは、
時代が変わり、今では店でアイルランドの歌を歌うことすら許されなくなっていることに心を痛める。
ジャズとアイルランド民謡には、彼らの対照的な感情が反映されている。マーティは、常に未知の世界を切り開く前衛的なジャズのように、ここではないどこかへ旅立ちたいと思っている。これに対して、伝統に愛着を覚えるリリーは、死んでも去り難く、そこにとどまっているのだ。
そしてこの映画のなかで、音楽が最も印象に残る場面といえば、それは間違いなく、マリアンヌ・フェイスフル扮するリリーの幽霊が、マーティの部屋にあるピアノで、アイルランド民謡の<ダニー・ボーイ>を歌う場面だろう。この歌を久し振りに耳にしたマーティは、ふとこんな台詞を口にする。「嫌いな曲だったけど、いいもんだな」。
この何ともさりげない台詞は、この映画の見方によって、意味が様々に変わる。もちろん、恐れていた幽霊に親近感を覚えたことを意味しているし、ここまで音楽について書いてきたことに照らせば、これまで背を向け続けてきた伝統に心を開こうとする気持ちのあらわれでもある。しかしながら、もっと深い意味を読みとることもできる。
この映画には、この場面の少し手前で、わずかながらもう一度だけ、バックに<ダニー・ボーイ>が流れる場面がある。リリーの不思議な力によって、町のなかに息をひそめる幽霊たちが見えるようになったマーティは、他界した友人や親戚のなかに、彼の父親の姿を発見する。父親は、ダンスホールで楽しげに踊っているが、
そのバックに流れているのが<ダニー・ボーイ>なのだ。となると、「嫌いな曲だったけど、いいもんだな」という台詞に、また別の意味があることがおわかりいただけるだろう。
この映画は、かつてマーティと父親のあいだに何があり、どんな関係であったかということにはまったく触れようとはしない。それでも、幽霊を手助けし、幽霊がカップルにとって愛の天使になるという物語の向こう側からは、語られることのないアイルランド系移民の父子の物語が、詩情となって立ち上がってくるのだ。
その詩情が伝わると、フェイスフルが歌う<ダニー・ボーイ>の詞も別な意味を持つ。字幕からそのニュアンスをかぎとることはできないが、その詞は、リリーの幽霊を媒介に、亡き父親が息子に語りかける言葉ともなるのである。 |