トム・ディチロ・インタビュー

1999年 電話(ニューヨーク―東京)
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(初出:「GQ Japan」99年9月号、大幅に加筆)
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自分を発見し、理解するための処方箋

 「リアル・ブロンド」は、「ジョニー・スウェード」や「リビング・イン・オブリビオン」など、インディーズならではのユニークな作品を作りつづけるトム・ディチロの新作である。

 「リアル・ブロンド」の前作にあたる3作目の『Box of Moonlight』が未公開なのは残念だが、ディチロの作品には、見せかけの世界のなかで思い込みにとらわれた登場人物たちが、その思い込みと現実のギャップに振り回され、 意外な展開のなかで自分の本来の姿に気づいていくという共通点がある。

 「現代ではたくさんの人が、自分が本当に感じていることを認識したり、自分が誰なのかを知るという単純な行為に悪戦苦闘しているみたいだ。 本当の自分がどうかなんて全然関係なくて、どう見えるか、他人の前でどれだけそのフリができるかがすべてなんだよね。そうしたリアリティの排除は、いたるところで目にする。何だかみんな、真実が怖いみたいだ。 別に宗教的にどうとか、精神分析的にどうとか言ってるわけじゃないよ。人間が単純に自己を認識し、世界における自分の存在を知るってことなんだけど。で、(新作では)この現象を、 エンターテイメント業界で働いている人々を通して見てみたらかなり面白いんじゃないかと思ったわけだ。生き残るために仕事が表面的な行動をとることを要求するような立場にいる人たちということだ。

 あなたにはぜひ『Box of Moonlight』を観てもらいたかったな。 (あの作品では)同じテーマをかなり違ったアプローチで扱っている。 自分のことが分かりはじめたある男が、アメリカの片田舎で5日間を過ごす話で、 ぼくの作品のなかでは、街を舞台にしてない唯一の作品なんだ。 でも、自分にとってテーマはまったく同じだよ。 人間はどうやって自分のことを理解するのか。 そして、どうやってありのままの自分を受け入れ、充足できるか。難しい事だよね。 人によってはとてつもなく不幸になっちゃうかもしれないし、とても傍にはいられないような人間になっちゃうかもしれない。 ぼくはそういう行為にすごく関心があるんだ。 特に自分ではない何かになろうと奮闘している人ほど、 その行動は複雑になる気がする。 そういうものにひどく興味を引かれるんだ」

 「リアル・ブロンド」にはふた組のカップルが登場する。そのなかで、映画のタイトルと直接的な結びつきを持っているのが、俳優のボブとモデルのサハラのカップル。ボブはブロンド信仰の持ち主で、 それゆえ自分はブロンドにこそ相応しい男だと信じ込んでいる。サハラは、女性カメラマンの暗示もあって、自分はワイルドでセクシーなブロンドなのだと思い込もうとつとめる。彼らはともにブロンド神話に縛られている。 アメリカでは、ハリウッドやロックを通して、おびただしい神話的なイメージが生み出されてきたが、ディチロはそんなイメージをどのように見ているのだろうか。

 「そういうイメージはとてもパワフルなものだと思うよ。危険なのは、それが娯楽の範疇を越えるときだよね。人工的なものとして認識されなくなり、現実のような意味合いを持ち始めるとき。個人的にはその瞬間にイメージは破壊的な存在になってしまう気がする。


◆プロフィール
トム・ディチロ
79年ニューヨーク大学映画科修士課程を修了。在学中、脚本と監督を務めた6篇の短編映画の1作が、Paulette Goddard賞スカラシップ・アワードを受賞。 卒業後、撮影カメラマンとして働き、ジム・ジャームッシュの「ストレンジャー・ザン・パラダイス」(84)を含む8本の長編映画を撮影した。80年から87年の間、 自作自演した舞台「ジョニー・スウェード」(のちに映画化)など多くの舞台、インディペンデント映画に出演。演出・主演を務めた舞台「Fluorescent Hunger」は89年にCharlotte Rep's International New Play Festival最優秀賞を受賞した。 92年サンダンス・インスティテュートに、脚本「ジョニー・スウェード」のディレクティング・フェローとして招かれた。ブラッド・ピットやキャサリン・キーナーらを起用し、92年に本作を監督。 ロカルノ映画祭でグランプリを受賞した。続く「リビング・イン・オブリビオン 悪夢の撮影日誌」は95年サンダンス映画祭脚本賞に輝き、 またニューヨーク現代美術館(MOMA)のNew Director's / New Films'シリーズのオープニングも飾った。ほかドーヴィル、ストックホルム、ヴァラドリッドの各映画祭でも最優秀作品賞を受賞している。 96年の「Box of Moonlight」に続き、この「リアル・ブロンド」が第4回監督作品となる。
(「リアル・ブロンド」プレスより引用)

 

 



 ぼくのアーティストとしての感性は、ポップ&ロック的、何でもありなんだけど、それでいてある種古典主義的なところがある。どちらからも得るものがあると信じているんだけど、ポップの感性はわれわれの文化に大いに貢献したとは思う。 アートとは何か、アートはどうあるべきかという概念を緩めてくれた。古典主義者が啓蒙しようとするほどお堅いものじゃなくていいんだと教えてくれた。

 でも、またもやこの映画の原点に戻るけど、文化のなかのこういったイコン=イメージが強くなりすぎて、人々が、それが薄っぺらなものだと見分けられなくなってしまった気がする。世界中の人が、イコンしか存在しない作り物の世界に身を投じることにとらわれているとしか思えない。 最近ぼくが興味をそそられるのは、そういうことなんだ。イメージって何だろう。いい面もあるんだけど、基盤が100万分の1の薄さしかない文化を形成しつつあるように思えるんだ」

 物語の中心となるもうひと組のカップル、失業中の役者ジョーとメイクアップ・アーティストのメアリーは、付き合いも長く、簡単には思い込みにとらわれたりしないように見える。しかし、ジョーはマドンナらしき人物から電話をもらって、舞い上がってしまう。 このマドンナについては、ビデオ・クリップの撮影現場まで再現され、ディチロが言うポップのイメージが浮き彫りにされている。

 「そうだな…マドンナに関するコメントはちょっと気をつけなきゃならないんだ。曲の使用許可を取るのに、例のシーンを見てもらわなきゃいけなかったからね(笑)。彼女をリスペクトしてなかったり、否定しているように聞こえる言動をするつもりは毛頭ないんだけど、 でもマドンナが世界で一番素晴らしい歌手だとは思ってないし…いいよね、今のは言っても…自分のイメージ作りにものすごいエネルギーを費やしてる。 だからこそ、この作品の要素として彼女を選んだんだ。 マドンナのキャリアを追うと、基本的に6ヶ月ごとに自分のペルソナ、つまり、視覚的な外観を変えている。 でも、人々が彼女への興味を失わないようにそうしなきゃならないってことが、かなり妙だと思うんだ。そうは言っても、彼女が国際的なスターになったってこと自体、すごく興味深くもあり、怖くもあり、あるいは警戒心を抱かせる。人間が、別のある人間から、 まったく現実味のない何かを作ってしまうその行程がね…名前だってそうだよ、ジーザスの母親の名前を自分につけてること自体、ものすごくおかしいと思う(笑)」

 このドラマのなかで一番愉快なのは、酒場で主人公たちがジェーン・カンピオンの「ピアノ・レッスン」について論争を始めると、周囲にそれが伝染し、店中がこの映画の論争を始めるところだろう。マドンナがポップのイメージを象徴しているとするなら、この「ピアノ・レッスン」はアートのイメージを象徴しているといえる。

 「ぼくにはあの映画はちょっとバカバカしすぎて、他の人たち、特に世界中の映画評論家たちほどシリアスに受け止めることができなかったんだ。 だって、まさにリアルじゃないイメージを作り上げているじゃないか。(あの頃は)どこに行っても「ピアノ・レッスン」「ピアノ・レッスン」って大騒ぎだったけど、 ぼくがあの映画を見て最初に思ったのは、何でさっさとピアノを海岸から動かさないんだろうって事だったんだよ。で、気づいたんだけど、それをやっちゃたら波に晒されるピアノの映像を撮れなくなっちゃうんだよね。 ぼくにとってあの作品は、ドラッグストアで売ってるような、流行遅れの女性向けロマン小説って感じだ。 だったらいっそ映画で使ってやろうと思って取り入れたわけだ。

 だって「リアル・ブロンド」は現実の人間関係の映画なんだからね。「ピアノ・レッスン」の方は、長髪のピアス男がやって来て、ある女を、彼女を縛り付けようとする旦那から引き離して、二人でどっかに行って、いつまでも幸せに暮らしましたって話だよ。はっきり言って、そんなの馬のクソって感じだ。 完膚なきまでに嘘っぱちで、バカげてる。たとえばぼくだったら、1年後にはどうなってるんだろうって考えてみる。ハーベイ・カイテルとホリー・ハンターが口論をしたら?それなら観てみたいよ。 とにかく、本物のカップルとして奮闘するジョーとメアリーと対比するのにぴったりだったから、「ピアノ・レッスン」を使ったんだ。 現実の世界で日々カップルたちが葛藤しているようなことを描く方がぼくは面白いと思うから」

 この映画では、現実と虚構の微妙な力関係というものが印象的に描かれている。たとえば、サハラをめぐるドラマでは、彼女は最初は女性カメラマンの操り人形のような存在だが、彼女の私生活が次第に写真の虚構の世界に入り込んでいく。 まず顔の青痣が虚構を捻じ曲げ、ついには写真のなかで彼女が本来持っている母性が力を発揮することになる。これはボブとソープオペラの関係にも当てはまる。こうした発想はどこから生まれてくるのだろうか。===>2ページへ続く

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