巨額の寄付の申し出を受けて久しぶりにデンマークに戻ったヤコブは、自分に娘がいて、彼女が目の前で結婚式を挙げていたことを知るばかりか、孤児院の運営者/父親として難しい決断を迫られる。ヨルゲンの妻ヘレネも、かつての恋人とのまさかの再会を果たしてから人生が急変していく。さらに、娘のアナにも結婚という選択を後悔する出来事が起こる。
これに対して本作では、ふたりの主人公が女性に変更されている。オリジナルでは、女性は頼るか見守る立場にあったが、男女の立場が逆転し、女性が決断を迫られることになる。それはまさに現代的な視点といえる。
そこで、リメイクに関してまず注目しておかなければならないのが、イザベルとグレイスの関係だ。主人公が男性であれば、自分の子供の存在をずっと知らずにいるということも考えられるが、女性の場合にはまずあり得ない。だから、インドからニューヨークにやって来たイザベルが直面する予期せぬ出来事には、男女の決定的な違いが表れる。その部分をどう脚色するかによって、本作の方向性が決まってくる。
実際、イザベルとヤコブでは、実の娘が目の前で結婚式を挙げていたことを知るまでの心の動きが違う。イザベルが最初にテレサと対面したときに、「お子さんは?」と尋ねられる場面があるが、それは彼女にとって詮索されたくない事柄だろう。彼女が結婚式でオスカーと再会したときには、自分たちの子供のことが脳裏をよぎったはずだが、その時点ではまだ遠い過去のことだと思っている。その後、グレイスのスピーチによって彼女が自分の娘だと知り、激しく動揺することになる。
オリジナルでは、ヤコブはアナの存在を知らなかったため、過去は問題にならないが、本作では、過去の重みが増していく。オスカーはグレイスに、「“死んだ”と伝えてたのは、母親に捨てられたと思わせたくなくて」と説明する。イザベルをインド料理店に案内したグレイスは、「私なら子供を捨てない」と告白する。
その違いは、映像表現にも表れている。オリジナルでは、手持ちカメラによる顔や目のクローズアップを多用することで、登場人物たちの瞬間の反応や感情がとらえられ、積み重ねられていく。本作では、瞬間よりも現在と過去を結びつける構成が重視され、過去をどのように受け入れていくのかが描き出される。
そして、本作の方向性としてもうひとつ見逃せないのが、母親としての立場や母性が強く意識されていることだ。それは、イザベルの複雑な立場だけでなく、テレサの造形にも反映されている。テレサとオリジナルのヨルゲンには、いくつか明確な違いがある。
ヨルゲンの屋敷で印象に残るのは、壁や家具の上に飾られた動物たちの剥製だ。それらは最初は彼の力を誇示するためにあるが、次第に歩み寄る死に対する不安の象徴へと変化していく。本作でそんな剥製と置き換えられるのが、テレサが散歩道で見つける壊れた鳥の巣だ。母鳥を失い、卵が残された巣は、彼女の不安や恐れを象徴している。
ヨルゲンは終盤の誕生日パーティーでも、会長として海外展開のビジョンを熱く語っている。しかし、テレサは会社を売却し、仕事と家庭の両立を放棄する。それを踏まえて比較してみると興味深いのが、契約の条項をめぐって主人公たちが激しく対立する場面だ。
オリジナルでは、オフィスを飛び出したヤコブを追いかけてきたヨルゲンが、秘密を打ち明け、助けを求めて涙を流しさえする。本作では、テレサがイザベルに「子供を捨てても善行で帳消しだとでも?」という痛烈な言葉を浴びせ、同じ展開になるが、彼女は涙をこらえ、「インドまで追わなきゃダメ?」と言って詰め寄ろうとする。そこには母親としての強い意志がむき出しになっている。
さらに本作では、この場面と結婚を後悔するグレイスがイザベルに頼る場面が、オリジナル以上に深く結びついているように思える。グレイスの場合は、オリジナルのアナのように夫に裏切られるのではなく、「捨てられた事実は消えない」という夫の冷たい言葉に傷ついている。そんな事情を知らないイザベルは、最初は突き放して本人に決断させようとするが、やがて自分自身が母親として過去を乗り越えるための決断を迫られていることに気づく。
その結果はテレサの葬儀に表れる。会長のまま亡くなったヨルゲンの葬儀には多くの関係者が参列するが、テレサの場合は、イザベルを含む家族だけで散骨を行う。その光景は、過去が受け入れられたことを意味しているように見える。 |