筆者はかなり熱烈な彼女のファンであり、また女優として特別な関心を持っている。彼女が登場してきたとき、いずれダイアン・ウィーストのような存在感を放つ女優になるに違いないと思ったのだ。ウィーストの存在感とは、具体的にいえば『シザーハンズ』のペグ役である。彼女は、暗い屋敷からエドワードを連れだす役割を果たすが、それはこの映画で最も難しく、かつ重要な部分になっている。
この屋敷は、暗黙のうちに管理され、隠れ場所となるような死角が見当たらない郊外の生活のなかで、孤立する少年が内面に構築した影の世界を象徴している。だから表層に支配された明るい郊外とは決して相容れない。その境界を自然に越えることを可能にしているのは、エイボン・レディの恐るべき通俗さとまったく無防備な善良さを、見事に両立させてしまうウィーストの存在感以外のなにものでもない。そして、その結果としてこの映画では、レーガン時代以後の郊外の閉塞感が浮き彫りになるのだ。
『ベティ・サイズモア』でゼルウィガーは、昼メロに熱中する通俗さと無防備な善良さを完璧に両立させ、驀進していく。そんな存在感と脚本、演出が絡み合うとき、この映画からは現代的な視点が浮かび上がってくる。
ベティが出会う人々は、最初は戸惑うものの、半ば彼女に同情し、半ば声援を送り、そして無防備な善良さゆえに、どこかで彼女をなめている。それはわれわれ観客にもいえる。ベティの軌跡を追うわれわれは、気づかぬうちに『トゥルーマン・ショー』における"トゥルーマン・ショー"の視聴者の立場に立たされている。そのトゥルーマンは虚構に翻弄されるが、ベティの虚構はまったく揺らぐこともなく、逆に現実を彼女の世界にずるずると引き込む。彼女は、昼メロで学んだ知識で、危険な状況にあるけが人の命を救い、愛しのデイヴィッドを罠に陥れた女優に平手打ちを喰わせ、昼メロの筋書きすら変えていく。
それでも彼女の周囲の人間やわれわれは、彼女が夢を叶え、成功を遂げようとしているかのような錯覚に浸っている。しかし、彼女が現実に目覚めるとき、本当にぐらぐらと揺らぐのは、彼女ではなく表層に囚われているこちら側の方なのだ。『トゥルーマン・ショー』で真実に気づいた主人公は、ただそこを出て行くだけであり、『マルコヴィッチの穴』の登場人物たちは最後まで表層にすがり、人間はただの入れ物と化していく。だがベティは、それが虚構であれ現実であれ、最後まで仕切り通してしまう。それが実際にはあり得ないことであるとしても、この映画には、そう思わせてしまうだけの圧倒的な強度があるのだ。 |