筆者は、GUCCIの創業者一族のことをほとんど知らないし、それほど関心があったわけでもないが、ずいぶん前にこのふたりに関する記事かなにかを読んだことがあり、マウリツィオの方が本気になったような気がしていた。ただそれは勘違いかもしれないので、確かめるためにサラ・ゲイ・フォーデンの原作『ザ・ハウス・オブ・グッチ』をちょっと読んでみた。ふたりの馴れ初めについて、原作では以下のように表現されている。
「マウリツィオはその夜退屈していた――パトリツィアが身体の線を強調する真っ赤なドレスで登場するまでは。一目見た瞬間から、彼は彼女から目を離すことができなくなった。やぼったいタキシードを着ていたマウリツィオは、ある有名ビジネスマンの息子とグラスを片手にしゃべりながらも、パトリツィアが友人たちと笑ったりしゃべったりする姿から目を離せず、会話が上の空になっていた」
「マウリツィオは頭のてっぺんから爪先まで興奮でぞくぞくした。撃ち抜かれたみたいに彼女に魅せられた彼は、言葉を失ってうっとりと見つめるばかりだ」
ふたりの馴れ初めがこれだけ違えば、その後の展開もやはり違ったものになるだろう。本作では、家業を継ぐことに関心がなかったマウリツィオを、パトリツィアが主導権を握ることによって変えていくように見える。だが、原作のマウリツィオはもともと野心家だったが、父親のロドルフォに抑え込まれていたためにそれを表に出すことができずにいた。だから、パトリッツィアは、正体をあらわしたマウリツィオを見て、このように考える。
「パトリッツィアはそのころやっと、『マウリツィオは権力と富を握ると人間が変わってしまうから気をつけるように』という舅の警告に思い当たった。舅がいったとおりだ。夫はグッチにかける自分の夢を脅迫的に追い求め、ほかのすべてを切り捨ててしまっている――家庭も捨てようとしている。妻の私の意見や忠告に耳を貸そうとしない。夫婦の間にすきま風が吹き始めていた」
リドリー・スコットが、男性が支配する創業者一族と渡り合う野心家の女性を描こうとしたのであれば、レディ・ガガのキャラクターはぴたりとはまっているが、本作における様々な脚色や過剰な演技は、そんなヴィジョンを越えているように思える。
過剰な演技といえば、ジャレッド・レトが特殊メイクで大変身して演じるアルドの息子パオロが際立っているが、脚色と絡み合った過剰な演技というのもある。たとえば、パトリツィアの助言者となる占い師のピーナ・アウリエンマの存在だ。パトリツィアは、占い師としてテレビで電話相談を受けているピーナに電話し、悩みを打ち明けたことがきっかけで彼女と親密になっていく。だが、原作のピーナは以下のように表現されている。
「マウリツィオが出ていったあと、パトリツィアは一人の好ましからぬ友人に一心に頼った。ナポリ生まれのピーナ・アウリエンマという女性だ。彼女はパトリツィア夫婦と何年も前に、ナポリにほど近い、温泉と泥風呂で有名なイスキア島という保養地で知り合った。ピーナは食品関係の事業を展開する実業家の家庭の出身で、活発で楽しい仲間ができたとパトリツィアは喜んだ。それから夏になるとカプリで一緒に休暇を過ごし、彼女の紹介でパトリツィアはそこに別荘を買った。ナポリの人独特の皮肉っぽい冗談をよくいい、タロット・カードの名手で、パトリツィアは夫に去られた胸の痛みを和らげるために彼女と長い時間を過ごした」
こうした脚色や過剰な演技を踏まえるなら、本作は、帝国を築きながらも帝王学とは無縁だった創業者一族の悲劇を描くブラック・コメディと見ることもできるだろう。マイケル・ウィンターボトムは、『グリード ファストファッション帝国の真実』で、人気ファッション・ブランドTOPSHOPを擁しながら経営破綻した実在のファストファッション王フィリップ・グリーン卿をモデルに、リチャード・マクリディ卿というキャラクターを作り、格差を生む市場主義を痛烈に風刺するブラック・コメディに仕立てたが、そういうアプローチもあったのではないかという気もする。 |