ハリエットに導かれて自由州を目指す奴隷たちの目には、そんな彼女がどのように映ったのだろうか。右も左もわからない場所で突然彼女が発作に襲われたら、彼らは不安に駆られたに違いない。そして、無事に自由州にたどり着いたときには、彼女に畏敬の念を抱いたことだろう。本作には、そんな逃亡者たちの立場や感情を垣間見ることもできる。
しかしより重要なのは、ハリエットの能力を独自の視点から掘り下げていることだ。本作の導入部では、ある疑問が浮かぶ。物語は、ミンティの夫ジョンが、弁護士から手紙が届いたことを彼女に伝えるところから始まる。そのふたりのやりとりは、彼女には字が読めないことを示唆している。やがて逃亡を決意したミンティは、聖書にちなんだ霊歌で母親に別れを告げる。
では、彼女はそれをどこで覚えたのか。先述の伝記にはそのヒントになるような記述がある。
「少女から若い女性へと成長したアラミンタは、自分のキリスト教信仰の高まりを経験し、それは、それ以後、終生変わることのなかった深い信仰の基盤となった。おそらく幼少の頃にかなり重病であったことから、母親ができるだけ娘の病床に寄り添いながら、自然に聖書の教えで娘の頭をいっぱいにしたことによると思われる。読み書きは教えられなかった。宗教上の知識はすべて、同じく読み書きができなかった両親から聴いて覚えた聖書を拠りどころとして吸収したのであろう」
筆者がこの記述に興味を覚えるのは、そこにアフリカ文化との深い繋がりを感じるからだ。奴隷制によってアフリカ文化は失われていったが、形にならない精神的な文化は世代を超えて引き継がれた。具体的には、超自然的な力の信仰や音楽、文字によらずに口から口へと伝えられる口承文芸などだ。
ハリエットは、そうした根絶されることがなかったアフリカ文化をしっかりと引き継いでいるように見える。本作では、そんな彼女の世界観、彼女に世界がどう見えていたのかが、「見えるもの」と「見えないもの」を対置させることで巧みに表現されている。
たとえば、本作の冒頭には、弁護士から送られた手紙のエピソードがあり、そのしばらく後には、ミンティが奴隷主に天罰が下るように祈る場面がある。その手紙は見えるものを、祈りは見えないものを意味している。もっとわかりやすいのは、夫を救出するために南部に向かう決意をしたハリエットとウィリアム・スティルの会話だろう。スティルが「看板や地図や文字を読めるのか?」と問うと、彼女は「神の声は聞こえる」と答えるのだ。
そして、南部にも奴隷主や奴隷監督には見えない世界がある。グリーン牧師は表向きは奴隷制を肯定する説教を行なっているが、見えないところで地下鉄道と繋がり、プランテーションには同様のワークソングが響いているが、ハリエットの霊歌を耳にすると奴隷たちはすぐに行動を起こす。北村崇郎の『ニグロ・スピリチュアル 黒人音楽のみなもと』には、ハリエットについてこんな記述がある。
「彼女が近くに来ていると知ると、奴隷たちは「いざ行け、モーセよ」(Go Down, Moses)を歌って、近隣のプランテイションの奴隷たちに信号を送ったという」
こうしたことを踏まえると、それまでみな白人だった車掌のなかで、ハリエットが頭角を現したことも不思議ではなくなる。彼女はアフリカ文化に深く根差した力を備え、モーセのように奴隷を導くことができたのだろう。 |