あるいはこの映画は、主人公を刑事ではなく私立探偵にすることによって、『セブン』の結末からもう一歩踏みだすドラマともいえる。『セブン』の主人公は、警察の捜査のなかで越えることが許されない一線を越えてしまったために法に拘束される。この映画の主人公もまた同じように許されない一線を越え、私的な裁きに踏み切るが、彼が私立探偵であるため、ドラマは最後まで個人的な葛藤に終始し、主人公は『セブン』の結末とは異なる癒しと希望を見出していく。そういう意味では、あまりにも救いのない『セブン』の結末に対して、共通する主人公の葛藤に対して別な光をあてた作品と見ることができる。
しかし筆者がこの『8mm』の脚本に感じる魅力というのは、そういう要素とは違うところにある。ウォーカーの世界は、七つの大罪をモチーフにした殺人やスナッフ・フィルムなどが強烈なインパクトをもたらすので、ついつい過激なイメージの方に目が行ってしまうが、この脚本家にはもうひとつ、非常に深いこだわりを持っている主題がある。それは家族だ。
たとえば、『セブン』で定年退職を間近にひかえたサマセット刑事は、かつて結婚同然の暮らしをしていた女性が妊娠したとき、自分の子供がこんなおぞましい世の中で育つことに怖れを抱き、彼女に中絶をさせたことが心の重荷になっている。主人公ミルズ刑事の妻ステーシーも、妊娠したときに同じような怖れを感じ、サマセットにはその気持ちを打ち明けるが、夫には妊娠を告白しない。
それはその時点ではささやかな秘密に見えるが、ラストでその秘密が殺人鬼の口から語られるとき、秘密は主人公の内面に致命的な打撃を与える。もしそれが秘密でなければ、主人公は一線を越えることがなかったかもしれない。そんなふうに感じられるほどに、殺人鬼が秘密を口走る場面は緊迫し、主人公夫婦のあいだに垣間見られた微妙な距離というものがあらためて重みを増していくのだ。
新作の『8mm』は、まさにそんな家庭の秘密からドラマと世界が作りあげられていく。大富豪の老いた未亡人は夫の遺品のなかから、にわかに信じがたい秘密を見出し、探偵に調査を依頼する。8mmに映っていた娘の素性を突き止め、そのメアリー・アンの母親を訪ねた探偵は、トイレのなかから封印された日記という母親の知らない娘の秘密を見出す。そして映画の終盤では、過激なポルノ映画のなかで凶暴性を発揮するマシーンという自己を秘密にし、母親と平穏に見える生活を送る男の姿が浮かび上がってくる。
こうした秘密は、それぞれの人物の欲望や抑圧と結びついている。亡くなった大富豪は表面的には健全な生活を送っていたに違いない。マシーンの母親も教会に足を運ぶ姿が暗示するように信仰を支えとした生活を送っている。一方、メアリー・アンはスターへの過剰な憧れゆえに母親や現実との接点を見失ってしまう。この映画のスナッフ・フィルムとは、彼らの欲望や衝動が積み上げられ、絡み合ってできる秘密の結晶なのだ。
主人公の探偵は、一見そうした秘密とは無縁のように見えるが、必ずしもそうではない。この映画の冒頭で出張から戻った彼は、喫煙の口臭を消してから妻子と対面する。この夫婦にとって彼の煙草をめぐるやりとりは挨拶代わりといえるほど頻繁に話題にのぼり、主人公にとっては、妻から咎められるほどにそれが抑圧となって、煙草に手が伸びてしまうという印象を与える。そんな煙草の問題は些細なことだが、ウォーカーの脚本はそんな些細な欲望や抑圧の積み重ねが、気づかぬうちに人を悪夢に引き込み、家庭のなかに致命的な秘密を作りあげることを暗示している。
この映画で、決してタフだとはいいがたい探偵を私的な裁きにまで駆り立てていくのは、狂気に満ちたポルノ産業のダークな世界に対する憤りというよりも、秘密の結晶としてのスナッフ・フィルムを作りあげてしまうような家族の深い闇に対する怖れ、哀しみ、絶望、それらが入り交じった複雑な感情であるように思えてならない。 |