『パピヨンの贈りもの』の主人公は、パリに一人で暮らし、蝶の採集を生き甲斐にしている元時計職人の老人と、最近、彼と同じアパートに母親と引っ越してきた8歳の少女だ。“イザベル”という幻の蝶を探しつづけてきた老人は、その蝶が現われる場所の情報を入手し、フランス南部の高原に旅立つ。ところが、彼の車には少女が潜んでいた。看護助手をしている母親が仕事や付き合いに追われ、彼女はひどく寂しい思いをしていたのだ。
そんな設定からは、心優しい老人と無垢な少女の心温まる交流を想像したくなるところだが、この映画の老人と少女はどちらも一筋縄ではいかない。老人は、本当に仕方なく少女に同行を許すが、少しでも文句を言えば送り返すと警告し、なかなか厳格な態度を崩そうとはしない。
一方、少女にはかなり狡猾なところがある。悲しげな表情で老人の同情を誘うかと思えば、今度は老人の携帯電話に細工して、母親に連絡できないようにする。偶然見かけた新聞に、自分の誘拐の記事が出ていると、密かに面白がっている。自分の扱いに戸惑う老人の姿を見ながら、「子供いないでしょう」と生意気な口をきく。
実はその言葉は、老人の痛いところを突いている。ふたりはそれぞれに胸に秘めたものがあり、その鍵はともに“イザベル”が握っているのだ。
そして、彼らの旅にはもうひとつ注目すべきものがある。山に入って、老人が道を尋ねる測量士は、これからそこにゴルフ場ができると語る。老人と少女は、鹿の密猟を目の当たりにする。彼らが山小屋で出会う集団は、自然のなかでも仕事を忘れず、株の取引で大儲けしたことに狂喜している。彼らを歓待する酪農家は、農業政策が弱者を食い物にするため、民宿でもやるしかないと嘆く。
ふたりの旅は、大切なものは近くにあるが、遠回りをしなければそれを見出すことができないという教訓を残すだけではなく、遠回りそのものが現代のなかで貴重な体験になりつつあることも示唆している。
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