テリー・ツワイゴフが監督した『クラム』は、彼の友人でもある伝説的なコミック・アーティスト、ロバート・クラムとその家族を題材にしたドキュメンタリーだった。そのクラムの父親は、海兵隊の軍人で、家族に暴力を振るい、クラムも5歳のクリスマスに鎖骨を折られたという。『バッドサンタ』の主人公ウィリーも、少年時代に父親から暴力を振るわれ、クリスマスにもロクな思い出がない。
そんなウィリーは、この映画のなかで、サンタクロースのイメージを見事にぶち壊していく。このサンタは、クリスマスに子供たちにプレゼントを届けるかわりに、ショッピングモールの金庫を破り、売上を持ち去る。大酒飲みで、路地で吐くばかりか、小便まで垂れ流してしまう。もちろんサンタ姿もだらしなく、子供たちにも無愛想で、平気で汚い言葉を使う。女の尻を追い回し、ところかまわず事に及ぶ。そしてついには、閑静な住宅地で、サンタに向かって警官たちが発砲するという光景まで現出してしまう。
アメリカでは、こうした冒涜的なユーモアに憤慨したり、感情を逆なでられたりする人も少なくなかったはずだ。ブッシュ大統領の再選に、キリスト教の保守派や中道派の人々が大きな役割を果たしたように、現在のアメリカではキリスト教徒が、政治を動かすような求心力を持っているからだ。
イギリスの有力紙「ガーディアン」のサイト「Guardian Unlimited」には、2003年12月に『バッドサンタ』のアメリカ公開に合わせて、「バッドサンタはアメリカ人を救えるか?」というユーモラスなコラムが掲載された。その内容を要約すると、こういうことになる。
アメリカ人はいま、キリスト教によって団結し、その過剰な自信が外交政策を歪め、政教分離を揺るがしている。これまでそうした潮流に異を唱えてきた報道機関や大学はもはや効果的に機能していない。そんなアメリカで、キリスト教の最も神聖な祝祭を汚す破壊的な『バッドサンタ』は、モラルの監視人たちから非難を浴びたものの、好調なスタートを切った。この映画がその調子で多くの人々に受け入れられていけば、安心もできる、ということだ。
確かに、冒涜的なユーモアの連発は、そんなアメリカの状況に対して、格好のガス抜きとなったことだろう。しかし、この映画が揺さぶりをかけるのは、キリスト教という宗教だけではないし、かといって商業化されたクリスマスという次元に留まってしまうわけでもない。
ツワイゴフの前作『ゴーストワールド』では、郊外住宅地を舞台に、ヒロインにのしかかる閉塞感が鋭く描き出されていた。この映画で特に印象に残るのは、ヒロインが超オタクの中年男の部屋で見つけるポスターをめぐるエピソードだ。
昔のフード・チェーンのポスターには、デフォルメされた黒人が描かれている。そのイメージのルーツには、白人が顔を黒塗りにして黒人の物真似をしたミンストレル・ショーがある。彼女がそのポスターに引かれるのは、画一化された郊外のなかで隠蔽されている何かをそこに感じるからだ。そんな彼女は、美術の課題としてそのポスターを提出するが、差別の問題が起こることを恐れた人々によって排除されてしまう。
『バッドサンタ』のマーカスとウィリーのコンビが標的とするのは、郊外のショッピングモールであり、このドラマにも、そのポスターの一件に通じるエピソードが盛り込まれている。ショッピングモールのマネージャーは、婦人服コーナーの更衣室で、サンタが淫らな行為に耽っているのを目撃し、このコンビに、新しいサンタを探すつもりだと告げる。ところが、マーカスから小人に対する差別だと詰め寄られると、途端に弱腰になる。へたな発言や態度によって、マーカスから訴えられれば、自分の首が危なくなりかねないからだ。
あるいはここで、トッド・ソロンズ監督の『ストーリーテリング』を思い出してもよいだろう。この映画に登場する女子大生の頭のなかでは、郊外に暮らす平凡な中流の白人というコンプレックスが、人と違うことへの強迫観念にまでエスカレートしている。彼女の恋人は、脳性小児麻痺の障害がある同級生であり、彼とうまくいかなくなると今度は、黒人の教授に吸い寄せられていく。
その教授は実はSMマニアで、それを知った彼女は戸惑うものの、政治的正しさ(Politically Correctness)に勝手に呪縛され、「黒人を差別するな」とひたすら自分に言い聞かせ、彼の言いなりになる。一方、その教授の暴走する欲望もまた政治的な正しさの産物であり、彼らはお互いの表層を通してSMを繰り広げるのだ。 |