なぜなら、設定や物語に、説得力を生み出すようなディテールが盛り込まれているからだ。たとえば、ヴィカスは人間とエイリアンの間で単に孤立していくだけではない。エイリアンは、圧倒的な破壊力を持つ武器を持っているが、それらはエイリアンのDNAがなければ作動しない。ヴィカスはエイリアン化することで、人間側にとって貴重な実験材料にもなる。そんな複雑な立場が、自己と他者というテーマを際立たせるわけだ。
『エリジウム』の場合には、天国と地獄を最初に目にした時点で、現実が透けて見えるだけではなく、双方の世界やそこに生きる人間が掘り下げられることもない。エリジウムを守ろうとする女性防衛長官デラコートのキャラクターもひどく薄っぺらに見える。
筆者はこの映画を観ながら、アメリカの作家T・コラゲッサン・ボイルが95年に発表した小説『The Tortilla Curtain』のことを思い出していた。物語は、リベラルな中流白人の夫婦とメキシコから不法入国した夫婦をめぐって展開する。
白人夫婦はロサンゼルス郊外に住んでいたが、インナーシティで多発する犯罪のニュースに不安を覚え、まだ自然が残るトパンガ・キャニオンの住宅地に転居する。夫婦の夫の方はネイチャー・ライターで、最初は自然に触れる生活に満足していたが、コミュニティのゲート化が決まったことから葛藤を強いられる。リベラルなヒューマニストを自認する彼は、ゲート化に反対だったが、孤立することを恐れて本音を押し隠し、ゲートと壁のなかに取り込まれていく。一方、メキシコ人夫婦の夫は、やっとのことで仕事にありつくが、それは住宅地を壁で囲う作業であり、彼はその目的など考える余裕もなく仕事に精を出す。
『エリジウム』にも、分断された世界に生きる人々に対するこのような洞察が、なんらかのかたちで盛り込まれていれば、オリジナリティや説得力を獲得することができたはずだ。
※T・コラゲッサン・ボイルの『The Tortilla Curtain』については、関連リンクの「サバービア、ゲーテッド・コミュニティ、刑務所」でより詳しく書いていますので、興味のある方はそちらをお読みください。 |