「赤ずきん」の童話をモチーフにしたこの映画『赤ずきんの森』でまず印象的なのは、新鋭リオネル・デルプランク監督の独自の映像表現だろう。深い森や古色蒼然とした城という舞台設定は、ゴシック的な雰囲気が濃厚な昔のホラー映画を思わせる。しかし、デルプランク監督の表現スタイルは、そんな雰囲気とある意味で非常に対照的である。
無機的ともいえるシンメトリックな構図が多用され、その他にも意識的と思える不自然なカメラのアングルが目立つ。色彩や照明なども、極端なコントラストを生みだしている。このゴシック的な雰囲気と過剰な人工性の対置は、単に映像を独特なものにしているばかりでなく、映画のストーリーやテーマと深い関わりを持っているように思える。
『赤ずきんの森』は、夜の静けさに包まれた部屋のなかで、子供の誕生日に母親が童話の「赤ずきん」を読んでいるところから始まる。子供はその物語を聞きながら眠りにつこうとしている。ところが、音もなく部屋に忍び入った殺人鬼が母親を絞殺してしまう。このプロローグは、それに続く本編のドラマのヒントとなると同時に、現代という時代を象徴してもいる。
いまわたしたちは確実に物語というものを失いつつある。『ジェネレーションX』や『マイクロサーフス』などの小説で日本でも人気の作家ダグラス・クープランドは、エッセイ集『Polaroids from the Dead』のなかで、このようなことを書いている。
人間と他の動物との違いは、人間が物語を必要としていることだ。ところが、第二次大戦後に始まる郊外化、均質化されたライフ・スタイル、高度情報化社会のなかで、物語の基盤となっていた宗教、家族の絆、階級、イデオロギー、歴史などが消失し、中流の人々は空虚な世界を生きていると。
テレビやゲームなど、いまだって物語はいたるところに溢れていると思う人もいるかもしれない。しかしその多くは単なる虚構に過ぎない。語り継がれる物語は決してただのお話ではなく、人々を支え、現実を認識する力になっていた。ところが、物語を育む基盤が揺らいでいくことで、物語はただのお話になりつつある。たとえば、森というものも基盤のひとつだ。
森がみんな新興住宅地になれば、影の領域が駆逐され、物語の力が弱まっていく。そんな奥行きや広がり、神秘性を欠いた空虚な日常のなかで、にわかには信じがたいような異様な事件が起こるたびに、モラルの崩壊が叫ばれる。しかしそもそもモラルには法律のように条文があるわけではない。物語がモラルに効力をもたらしていたのだ。問題なのは、物語が失われることなのだ。
『赤ずきんの森』のプロローグは、まさにそんな現代を象徴している。母親は子供に物語を語り継ごうとしているが、その物語は、殺人という突発的な悲劇によって永久に断ち切られてしまう。そこでこの映画の本編では、現代という時代を踏まえたうえで、現実と物語の関係が掘り下げられていくことになる。
最近ではそんなふうに物語に着目し、それぞれに独自の視点で物語と虚構の違いを浮き彫りにしようとする作品が増えつつある。たとえば、殺人を犯した高校生カップルが、森のなかで「ヘンゼルとグレーテル」の物語に引き込まれる『クリミナル・ラヴァーズ』や、砂漠のなかで立ち往生し、危機的な状況におちいったバスの乗客たちが『リア王』を演じだす『キング・イズ・アライヴ』、仮想戦闘ゲームに熱中していたヒロインがアーサー王の物語を生きようとする『アヴァロン』などだ。
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