赤ずきんの森
Promenons-nous dans les bois


2000年/フランス/カラー/90分/シネマスコープ/ドルビーデジタル
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(初出:『赤ずきんの森』劇場用パンフレット)

 

 

虚構に支配された惨劇が
リアルな恐怖に満ちた物語に反転するとき

 

 「赤ずきん」の童話をモチーフにしたこの映画『赤ずきんの森』でまず印象的なのは、新鋭リオネル・デルプランク監督の独自の映像表現だろう。深い森や古色蒼然とした城という舞台設定は、ゴシック的な雰囲気が濃厚な昔のホラー映画を思わせる。しかし、デルプランク監督の表現スタイルは、そんな雰囲気とある意味で非常に対照的である。

 無機的ともいえるシンメトリックな構図が多用され、その他にも意識的と思える不自然なカメラのアングルが目立つ。色彩や照明なども、極端なコントラストを生みだしている。このゴシック的な雰囲気と過剰な人工性の対置は、単に映像を独特なものにしているばかりでなく、映画のストーリーやテーマと深い関わりを持っているように思える。

 『赤ずきんの森』は、夜の静けさに包まれた部屋のなかで、子供の誕生日に母親が童話の「赤ずきん」を読んでいるところから始まる。子供はその物語を聞きながら眠りにつこうとしている。ところが、音もなく部屋に忍び入った殺人鬼が母親を絞殺してしまう。このプロローグは、それに続く本編のドラマのヒントとなると同時に、現代という時代を象徴してもいる。

 いまわたしたちは確実に物語というものを失いつつある。『ジェネレーションX』や『マイクロサーフス』などの小説で日本でも人気の作家ダグラス・クープランドは、エッセイ集『Polaroids from the Dead』のなかで、このようなことを書いている。

 人間と他の動物との違いは、人間が物語を必要としていることだ。ところが、第二次大戦後に始まる郊外化、均質化されたライフ・スタイル、高度情報化社会のなかで、物語の基盤となっていた宗教、家族の絆、階級、イデオロギー、歴史などが消失し、中流の人々は空虚な世界を生きていると。

 テレビやゲームなど、いまだって物語はいたるところに溢れていると思う人もいるかもしれない。しかしその多くは単なる虚構に過ぎない。語り継がれる物語は決してただのお話ではなく、人々を支え、現実を認識する力になっていた。ところが、物語を育む基盤が揺らいでいくことで、物語はただのお話になりつつある。たとえば、森というものも基盤のひとつだ。

 森がみんな新興住宅地になれば、影の領域が駆逐され、物語の力が弱まっていく。そんな奥行きや広がり、神秘性を欠いた空虚な日常のなかで、にわかには信じがたいような異様な事件が起こるたびに、モラルの崩壊が叫ばれる。しかしそもそもモラルには法律のように条文があるわけではない。物語がモラルに効力をもたらしていたのだ。問題なのは、物語が失われることなのだ。

 『赤ずきんの森』のプロローグは、まさにそんな現代を象徴している。母親は子供に物語を語り継ごうとしているが、その物語は、殺人という突発的な悲劇によって永久に断ち切られてしまう。そこでこの映画の本編では、現代という時代を踏まえたうえで、現実と物語の関係が掘り下げられていくことになる。

 最近ではそんなふうに物語に着目し、それぞれに独自の視点で物語と虚構の違いを浮き彫りにしようとする作品が増えつつある。たとえば、殺人を犯した高校生カップルが、森のなかで「ヘンゼルとグレーテル」の物語に引き込まれる『クリミナル・ラヴァーズ』や、砂漠のなかで立ち往生し、危機的な状況におちいったバスの乗客たちが『リア王』を演じだす『キング・イズ・アライヴ』、仮想戦闘ゲームに熱中していたヒロインがアーサー王の物語を生きようとする『アヴァロン』などだ。


◆スタッフ◆
 
監督/脚色   リオネル・デルプランク
Lionel Delplanque
脚本 アナベル・ペリション
Annabelle Perrichon
撮影 ドゥニ・ルーデン
Denis Rouden
編集 ポム・ゼッド
Pomme Zhed
音楽 ジェローム・クーレ
Jerome Coullet
 
◆キャスト◆
 
ウィルフリッド   ヴァンサン・ルクール
Vincent Lecoeur
ソフィー クロチルド・クロウ
Clotilde Courau
マチュー クレマン・シボニー
Clement Sibony
ジャンヌ アレクシア・ストレシ
Alexia Stresi
マチルド モー・ビュケ
Maud Buquet
アクセル・ド・フェルセン フランソワ・ベルレアン
Francois Berleand
ニコラ ティボー・トリュッフェール
Thibault Truffert
ステファン ドゥニ・ラヴァン
Denis Lavant
刑事 ミッシェル・ミュレール
Michel Muller
母親 マリー・トランティニャン
Marie Trintignant
メイド スザンヌ・マッカリーズ
Suzanne MacAleese
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(配給:ポニーキャニオン/東京テアトル)
 

 なかでも、筆者がここで特に注目したいのが、フランソワ・オゾン監督の『クリミナル・ラヴァーズ』だ。この映画は、『赤ずきんの森』と対比してみると非常に興味深い。主人公はリュックとアリスという高校生のカップルで、彼らは学校で顔見知りの生徒を殺し、その死体を捨てるために森に入っていく。ところが『ヘンゼルとグレーテル』に酷似した設定に引き込まれ、森の男によって小屋に監禁されてしまう。男は凶暴で、彼を殺さない限りは逃げ出せそうにない。

 この映画は一見、カップルが現実から物語の世界に引き込まれるドラマのように見える。しかし、同じ世界を見ているはずのカップルは、実は最初から世界を共有していない。アリスは、空虚な日常に退屈し、『不思議の国のアリス』を思わせる虚構を生きている(彼女は人を殺しても平気な顔をしているが、ウサギを轢いてしまうと激しく動揺する)。リュックは、彼女のこの虚構に誘い込まれ、殺人を犯してしまったのだ。

 そんな彼は森の男との関係を通して、虚構と物語の違いを身体で思い知る。アリスの虚構とは、単に現実から逃避するだけのものだが、物語とはもともと現実に深く根ざし、非常に過酷なものである。彼は物語の残酷な洗礼を受けることによって、現実とすりかえられた虚構を見極め、初めて心の痛みと罪悪感を覚えるのだ。

 つまりこの映画では、殺人のリアリティをめぐって、現実、虚構、物語が交錯、転倒しつつ、最後に虚構と物語の違いが浮き彫りにされる。『赤ずきんの森』のドラマにもそれに通じる構造がある。

 この映画のプロローグで、幼いアクセルは母親が読む「赤ずきん」によって、物語の洗礼を受けるはずだった。しかし母親を絞殺されたことで、物語は断ち切られ、彼は物語の支えがないままに成長する。大人になった彼は、妊婦の腹を裂き、胎児を取り出し、さらには人狼となって殺人を繰り返す。

 それは一見、「赤ずきん」の物語を生きているかのようだが、実は『クリミナル・ラヴァーズ』のアリスと同じように、単に虚構に逃避しているに過ぎない。あるいは、アリスと同じように虚構に逃避しているからこそ、次々と残虐な行為に及ぶことができる。

 冒頭で筆者は、この映画のゴシック的な雰囲気と過剰な人工性の対置は、ストーリーやテーマと深い関わりを持っていると書いたが、この過剰な人工性はアクセルが生きる虚構を際立たせる効果をあげている。アクセルは演劇部の学生たちを城に招いて、「赤ずきん」を上演させる。その芝居はいかにも作り物であることを強調するように演出されているが、アクセルはその作り物の世界を現実として生き、学生たちをおぞましい悪夢に引き込んでいく。

 アクセルが仕掛けるのは、あくまで虚構に支配された惨劇だが、その虚構は最終的に物語へと反転する。ニコラはアクセルの庇護のもとに虚構の世界に閉じ込められ、誕生日の日に惨劇を通して物語の不在を引き継ぐはずだった。しかし、学生たちのなかでひとりの赤ずきんが生き残り、狼であるアクセルを退治することによって、このドラマはリアルな恐怖に満ちた「赤ずきん」の物語として完結することになるのだ。


(upload:2012/04/21)
 
 
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