本書でたどってきた様々な事柄のなかに、こうした日本の郊外生活にあてはまることがあっても不思議はないだろう。たとえば、歴史や伝統から切り離され、隔離された空間のなかで、電子メディアの向こうに広がる世界をある種の現実として受け入れ、成長していく子供は、明らかにそれ以前の世代の子供と感性が異なってくるはずである。
という意味で本書は、アメリカについて書いた本ではあるが、身近なテーマを扱っていることになる。また、本文でこのことにまったく触れなかったのは、読者がそれぞれに思いあたる点が見つかり、自然に興味が広がるほうが望ましいと考えたからだ。
そしてもうひとつの主旨としては、序章といま書いたことの両方に関係しているが、日本にはアメリカに関する本が氾濫しているわりには、“サバービア”について書かれた本が、ほとんど見当たらないということだ。このことは、カタカナ表記の英語が氾濫しているにもかかわらず、サバービアという言葉が、さほど一般化していないことからもわかる。ただし、ほとんど見当たらないとはいっても、学術的な本や専門的な本ならちらほら見かける。しかしここでいいたいのは、たとえば本書で取り上げたような映画や小説を見たり読んだりする人たちが、自然に手にとることができ、そうした作品の背景が見えてくるような本ということである。
そうしたギャップが、本書ですこしでも埋められることになれば幸いである。
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話は変わるが、本書の仕上げにかかっているときに、テレビのニュースでこんな話題を耳にした。
アメリカのある郊外住宅地で、それまではコミュニティの総意によって、建物を統一していたものが、これからは住民それぞれが、自分たちの望む家を自由に建てられるというように、条例が改められたというのだ。
この話題だけならたいして印象に残らないが、本書をお読みになった読者は、そこに深い意味を感じることと思う。
本書の最後の章で筆者は、80年代は50年代の価値観を見直す時期で、90年代にその解答が出されつつあるといったことを書いたが、このコミュニティの決断もひとつの解答といっていいだろう。
その50年代の価値観を同時代の目で検証したウィリアム・H・ホワイトは、『組織のなかの人間』の結びにおいて、集団の倫理と個人主義にスポットをあて、プロテスタントの倫理への復帰といったこととは無関係な、もっと普遍的な意味での個人主義の必要性を主張している。そして彼は、この本を次のような文章で結んでいる。
組織によって提供される精神の平和は、一つの屈服であり、それがどんなに恩恵的に提供されようと、屈服であることに変わりはないのである。それが問題なのだ。
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序章では、本書を書くための資料が、ぽんぽんと出てきたかのように書いたが、これは正直いってひと苦労だった。この資料探しの作業では、翻訳家の小川隆氏にたいへんお世話になった。氏の協力がなかったら、筆者はいまだにサバービアの迷宮をさまよっていたことだろう。心から感謝するしだいである。そして、本書のデザインについてあれこれと知恵をしぼり、素晴らしい本に仕上げてくれた平野敬子さんと葛西薫さんにも心から感謝したい。
それから、伊藤俊治氏、生井英考氏、川本三郎氏をはじめ、これまで様々なかたちでお世話になった方々にもお礼を申しあげたい。
最後に、企画の段階ではなかなか全貌が見えにくい本書の主旨をご理解いただき、本の完成まで辛抱強くおつきあいいただいた東京書籍編集部、滑川英達氏に心からお礼を申しあげたい。
1993年 夏
大場正明
■■著者からのお願い■■
やっと『サバービアの憂鬱』の全文アップが完了しました。
長い文章を最後までお読みいただき、まことにありがとうございました。こうして全文アップが完了したからには、ひとりでも多くの方に読んでいただきたいと思います。最後まで読まれて、すこしでも触発されるものがありましたら、ブログでもツイッターでも何でもけっこうですので、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
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