――あなたは、短編「江戸の花(原題:Flowers of Edo)」で日本の文明開化の時代に実在した絵師を扱ったり、現在進行中のギブスンとの共作「ディファレンス・エンジン」では、19世紀のイギリスを舞台に、
ハッカーやアウトローたちが登場するということですが、これらの作品は、歴史のなかのある時代の埋もれた大衆文化に着目し、あなたの方法論によって、そのパワーを解き放とうとする試みだと解釈していいのでしょうか。
BS そのとおりだ。ぼくがやろうとしていることを正しく把握している解釈だと思う。
――ということは、レトロフィットということは、歴史の新たな読み直しとも言えるわけですね。
BS そのとおり。
――昨日のデパートの買い物で、中国茶を買って、そのパッケージがとても気に入っていたようですが、あれもサンプリングですか。
BS もちろん、ぼくはあのイメージを買ったんだ(笑)。
――では、常にあらゆる場所でサンプリングをしているんですか。
BS そう、何が周囲で起こっているかに目を向けていることが作家の務めだからね。書斎に閉じこもって作品を書くのは正しいことじゃない。こもることによって磨きをかけられた文章は、
見た目には美しく見えるが、ぼくはそれが正しいことだとは思わない。お茶の包装にだって、ものすごくたくさんのイメージが隠されているんだ。
――以前にギブスンのインタビューを読んだときに、彼は、作品のなかのストリート感覚をスプリングスティーンの初期のアルバムに触発されて引き出したと語っていたように記憶しているのですが、あなたは、創作上で何か音楽に触発されることがありますか。
BS ぼくは日本のポップ・ミュージックが気に入っている。サロン・ミュージックはすごく好きだ。サンディ&サンセッツを聴いていたのも、創作の役に立っていると思う。サンディの持っているポップスターのイメージに惹かれる。
彼女はある種の中間領域のイメージを持っている。サイバーパンクが興味を持っているものは、中間領域にあるもので、なぜならそこには、相反するイメージが組み合わさっているからだ。
――では、SF以外のメディアで、その中間領域というか、サイバーパンク・カルチャーと呼べるようなものをあげてみてください。
BS その気にさえなれば、どこにだってあるものだよ。たとえば、君のなかにだってあるさ。
――それでは、「マックス・ヘッドルーム」はどうですか。
BS コカコーラのキャラクターになってしまったんで、非常に嫌な思いをしているよ。あれはもともとは、キューカンバ・グラフィックスというコンピュータ・グラフィックスのグループが作ったものなんだ。
でも、いまではコカコーラの広告になって、もはや彼らの芸術家としてのコントロールが効かないところに行ってしまったのは、ほんとに腹立たしいことだよ。ぼくたちSF作家は、お金はそれほど持っていないけど、自分の作品にはもっと権利を持っているからね。
自分をコントロールできることが重要であって、お金は単なる道具に過ぎないからね。ぼくたちは、貧しい分だけ自由なんだ。
――クローネンバーグの映画はどうですか。
BS 「スキャナーズ」は大好きだ。ホラー映画は、一般的に言って好きじゃない。ホラー映画は、人々に恐ろしいイメージを与えるためのノヴェルティを常に持っているという点で、基本的には保守的なものだと思う。人々を怖がらせるようりは、解放したり夢を開かせたりするべきじゃないかな。
――「スキャナーズ」の気に入っているところは。
BS 産業社会に対する批判になっているところ、その底には、とてもラディカルな姿勢があったと思う。スキャナーという超能力者たちが、アンダーグラウンドなところでお互いに助け合うというシチュエーションも気に入っている。
スキャナーたちは、ある特殊な力を持って生まれ、それを使って人々を助けようとするのだが、そんなシチュエーションがぼくたちの立場と似ているような気がしてとても共感を感じるんだ。
――「ヴィデオドローム」は。
BS SM的なところは好きじゃないんだけど、クローネンバーグが持っているメディア批判にはとても共感を感じる。マクルーハンが言ったように、メディアは人間の神経系の延長で、テレビの配線をするようにテレビは人間の脳とつながっているんだ。考えてみると、そういう状態は、とても面白いと思う。
――映像作家で関心を持っている人は。
BS 完全なひとつの世界を作っている映画が好きだ。そして、観客がそのなかに入り込むことによって、監督のヴィジョンを体感できる映画だ。フェリーニとか、デイヴィッド・リンチとか、彼らの作品は、観客をそのなかに取り込んでしまう。それから外国映画、別の文化に取り込まれる体験ができるからね。
===>3ページへ続く |