ドクトロウは小説の終わり近くで、「ハリー・フーディーニの生涯はショー・ビジネスのなかですごされたため、いきおい、彼の書いたものには誇張がある」と書いている。フーディーニとは、奇跡が起こった次の瞬間から、マスメディアと大衆心理のはざまで一人歩きを始める伝説の属性を熟知し、それを最大限に利用した男だといえる。彼が演出した奇跡は、何十冊もの真偽入り乱れた文献と、そのなかの一冊を映画化した、トニー・カーティス主演の『魔術の恋』によって何層にもおおわれ、フーディーニ伝説を形作っている。
松田道弘の『不可能からの脱出』は、そんな伝説を丹念にほぐし、虚実をより分け、中核をなす奇跡の内側にスポットを当てることによって、真のフーディーニ像を炙り出そうとする。
フーディーニの成功は、手錠抜けと独房からの脱出に始まる。警察のプライドにつけ込んで奇術の伝統的な空間を抜け出し、独房をステージに、手錠を小道具に変えることで、シンプルな脱出芸から劇的な効果を引き出す。また、「どんな手錠でもはずしてみせる」と豪語してマスコミを挑発し、突きつけられた難攻不落の手錠を1時間10分もかけてはずすようなショーを演出してしまう。
こうして彼の脱出芸は、より危険に見える内容へとエスカレートしていく。それは、手錠で橋から川に飛び込む水中脱出、水を満たした完全密閉の大型ミルク缶や中国風水牢からの脱出などだが、彼の演出は奇術師らしからぬものだ。シチュエーションが示唆する死の恐怖を大袈裟に強調し、脱出後にはそのむき出しの強靭な肉体、ふり乱した髪、カタルシスに酔う表情を誇示することで、鮮やかなコントラストを生み出す。おそらくこのアピールがあったからこそ、彼は時代と拮抗しえたのだろう。
20世紀初頭とは、飛行機が空を舞い、大型客船が北大西洋の覇権を争い、自動車が大衆向けに量産された時代だ。人々の耳目を集めていたのはテクノロジーだった。フーディーニ自身も飛行機を購入している。
にもかかわらず、演技者としての彼は、地獄から生還するような決死の脱出芸によって、テクノロジーに対抗していたように見える。彼は不死身を証明することによってテクノロジーを凌駕し、ボディビルダーのような肉体にそれをシンボライズしていたのではないか。
しかし、この肉体に対する自信が彼を破滅に追いやる。彼は腹にどんなパンチを受けても平気だと常々語っていたが、あるときボクシングの心得がある学生に不意打ちを食らい、それが命取りとなるのだ。そしてその翌年、リンドバーグがテクノロジーと手を組んだ大西洋横断の単独飛行によって新たな伝説を作ることになる。 |