お互いに銃を突きつけ、対峙する男たち。躍動する二挺拳銃からほとばしる銃弾。至近距離における壮絶にして華麗な銃撃戦。銃弾を浴びて死の舞いを踊る肉体。ジョン・ウーは、独自のバイオレンスの美学に貫かれた香港ノワールを創造し、タランティーノを筆頭とする新世代の映画人からリスペクトされる存在となった。
そして90年代前半には、その実績を引っさげてハリウッドに乗り込み、いまでは『M:I‐2』のような話題作を監督するまでになった。彼は新天地でも着実な前進を遂げているかに見えるが、作品の中身に目を向けるなら、まだまだ存分に本領を発揮するほどの機会や題材に恵まれているとはいいがたい。
ウーのバイオレンスの美学は、スローモーション、相似形やダンサブルな動き、弾丸や火薬の量など、テクニックや様式だけから生みだされるわけではない。香港時代の作品には、単純に善悪では割り切ることができないドラマがあり、主人公たちはそれぞれに心の痛みを抱え、それがバイオレンスに結びついていく。
ウーの快進撃の出発点となった『男たちの挽歌』では、刑事になった弟のために何とか極道から足を洗おうとするホーが、彼を憎む弟、そして彼を慕い、彼のために右足の自由を失い、一緒に巻き返すことを夢見るかつての右腕マークの間で板ばさみになる。それゆえクライマックスの銃撃戦は、悪の組織との対決の場であるだけでなく、兄弟愛と友情に決着をつける場ともなる。
『狼/男たちの挽歌・最終章』で、主人公の殺し屋は、彼が放った銃弾で失明しかけている歌手の面倒をみている。殺し屋を追う刑事は、その事実を知り、彼に共感を覚えるようになる。それゆえクライマックスの銃撃戦は、殺し屋と刑事という立場を超えた男同士の絆を確認する場ともなる。
ウーのバイオレンスとは、単純な善と悪の対決ではなく、生死を賭けたぎりぎりの状況で痛みを分かち合い、善悪を越えた揺るぎない絆を培い、確認する儀式なのだ。教会のイメージにこだわるウーにとって、それは聖なる儀式であり、そこから特異なカタルシスが生みだされる。
彼のハリウッド作品では、バイオレンスがこの聖なる儀式にまで昇華されることがない。それはまず何よりも、善悪の関係が明確な勧善懲悪の物語に題材が限定されてしまうからだ。『ブロークン・アロー』や『M:I‐2』で、核弾頭やウイルスと解毒剤を奪った者とそれを取り戻そうとする者の善悪の立場はあまりにも明確であり、視覚的にいかに華麗なアクションが展開されたとしても、カタルシスはともなわない。
但し、『フェイス/オフ』は例外といえる。FBI捜査官アーチャーには、凶悪なテロリスト、トロイに息子の命を奪われた心の痛みがあり、ふたりが顔を交換することで、善悪の立場にねじれが生じる。しかし、根本的には双方の立場が明確であるため、一対一の対決となるクライマックスでは、ねじれの効果はほとんど失われてしまう。この映画で最も印象的なのは、トロイとなったアーチャーが彼の息子を自分の息子と錯覚し、最後にその少年を引き取ることだ。そこには、本領発揮とはいえないまでも、ねじれによる痛みの共有を垣間見ることができるからだ。
最新作の『ウインドトーカーズ』は、基本的な設定だけでも、ウーが待ち望んでいた企画であることがよくわかる。エンダーズ軍曹は、命令を守り抜くために、部下たちを死に追いやった心の痛みを抱えている。そんな彼は新たな任務によって、重い十字架を背負う。任務はナバホ族の暗号通信兵ヤージーを護衛することだが、もし通信兵が生きたまま敵の手に渡る危険が生じた場合には、どんな犠牲を払っても阻止しなければならない。この部下を守ることと命令を守ることの二者択一は、決して善悪では割り切ることができない。
ウーはこの新作によって、単に香港時代の自分の世界を取り戻すだけではなく、それを発展させている。白人軍曹とナバホ族の通信兵のドラマは、タイ国境を舞台にした戦争アクション『ソルジャー・ドッグス』の中国人傭兵と狩猟部族のリーダーとの関係に密かなルーツを見出すことができるし、香港からヴェトナムの戦場に迷い込んだ若者たちの友情を壮絶なタッチで描いた『ワイルド・ブリット』の世界を掘り下げたものと見ることができるのだ。
彼のこれまでのハリウッド作品とは違い、この映画では、物語が進むに従ってエンダーズとヤージーの感情が、戦闘におけるバイオレンスと濃密に絡み合っていく。エンダーズは、率先して自分の身を危険にさらして部隊を守ろうとし、ヤージーは彼に信頼を寄せるだけでなく、心の痛みを察し、ナバホ族の儀式で癒そうとすらする。そんな彼らの絆は、冷酷な命令の露見によって断ち切られるが、その痛みや怒りこそが彼らをさらに深く結びつける。日本軍に包囲されたクライマックスの死闘は、ふたりが痛みを分かち合い、神に救いを求める聖なる儀式となるのだ。
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