■■カラヴァッジョが見出す劇的な光、そして聖なる光■■
この映画では、カラヴァッジョが見出す光が、彼の体験とともに変化する。特に大きな影響を及ぼすのが、彼が好意を寄せていたチェンチ男爵の娘ベアトリーチェが斬首刑に処せられることだ。
「カラヴァッジョは最初、窓や開いた扉など、すべてを自然光の光源の近くに置いて描いていました。彼は北部の出身だったので、とりわけ冬の、とてもやわらかで拡散された光を再現しようとしたのです。でも彼はモデルを直接にではなく、鏡に反射させて見ていました。それは鏡のなかに絵の構図を見ていたからです。彼がこの手法を用いたのは、聖アンジェロ城の前で斬首刑に処せられたベアトリーチェ・チェンチの死に遭遇するまででした。当時は処刑後、戒めとして死体が衆目に晒されました。カラヴァッジョは間違いなく、この首を落とされた体を一晩中見つづけたのです。
そのとき、彼の脳裏に何が残ったかというと、何よりも斬首というのは彼の絵の最も重要なテーマの一つで、何度も描いています。第二に、彼が見ていた死体は、松明に照らされていました。彼がその後で最初に手がけた絵は「ホロフェルネスの首を斬るユディト」ですが、最初はそれまでと同じようにモデルたちを窓の近くに配置して、鏡を用意して描こうとしたはずです。しかし、それが劇的ではないと感じ、わけを考え、松明という人工光の醸す効果がないからだと気づくのです。おそらく彼はそこで窓を閉じ、ランタンを灯し、人工光というものを見出したのです。それ以来彼は、「聖マタイの召命」のような、聖なるものを視覚化する必要があったいくつかの作品を除いて、ほとんどの絵を人工光によって描くのです。ですから初期の自然光を使った絵と、ベアトリーチェの死を目にした後のランタンの人工光を使うようになった絵との間には、大きな革新があったのです」
さらに、教会が画家に求める聖性とカラヴァッジョ自身が見出す聖性の間にある深い溝にも注目しなければならない。
「13、14、15世紀、それに16世紀の絵画には、ビザンチン人の優れた直観によって高い精神性を持った人物の頭の周りに光輪を描くという習慣がありました。これは視覚的に非常に美しく、素晴らしい直観だったので、何世紀にもわたって絵画やモザイクを飾ってきましたが、レオナルドの時代から変わります。レオナルドはそれをあまり好みませんでした。ミケランジェロもです。イエスや聖人たちの像というのは確かに高い精神性を持っているのですが、彼らは現実には人間なのです。それは異なる次元に至る人間たちの姿なのです。ですからそんな風に描きたくなかったのです。カラヴァッジョも決してそれを使おうとしませんでした。光輪のイエスを表す場合には、別のアイデアを用いました。つまり、太陽光線によって、天から注ぐ聖なる光によって表したのです。
「エマオの晩餐」という絵をご存知でしょうか? ロンドンのナショナル・ギャラリーにあるものです。カラヴァッジョは、2人の会食者に切り分けたパンに祝福を与えるイエスを、左側にあるランタンで照らし出しているのですが、宿屋の主人の影がちょうどそのイエスの背後の壁に差すように配置しています。これで何をしようとしているかというと、彼はイエスに自分を重ねているのですが、イエスに黒い光輪、暗い影を落とし、通常とは逆の意味へと導くのです。これは素晴らしい解釈です。芸術を通して誰もがするように、彼は自分自身をイエスに投影するのですが、常に自分が死に急いでいることを恐れ、自分をネガティヴに見ていたので、自分に黒い光輪をつけたのです。信じがたい才能です。これこそが天賦の才なのです。彼のなかに隠された無意識を語りつつも、間違いなくイエスの聖性を表現しているのです」
残念ながら「エマオの晩餐」は映画には登場しないが、この言葉で天才画家に対するストラーロの視点がより明確になるはずだ。あるいは、映画のなかでカラヴァッジョを追い詰めていく黒騎士の幻想に影へのこだわりを見ることもできる。ストラーロは以前からカラヴァッジョを熟知していたが、この映画には撮影を手がけたことによって新たに発見したことも盛り込まれているのではないだろうか。
「間違いなくあります。つまり私は彼の全体像をつかんだのです。彼が何をしたのかはわかっていましたが、なぜそうしたのかはわかっていませんでした。たとえば、自分の背後に、死のオーラという影をつけたことなどは、以前は理解していませんでした。「聖マタイの召命」の光線が、聖なるシンボルとして後で描かれたものだということも知りませんでした。調べ、掘り下げ、観察し、再現しようとして初めて、そうしたことが理解できるのです。私は、ミケランジェロ・メリージ、通称カラヴァッジョという一人の芸術家の特質を理解するために、自分の人生の一部を捧げるというこの大きな機会を与えられたのです」 |