フーベルト・ザウパー・インタビュー


2006年
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(初出:「キネマ旬報」2007年1月上旬号)

アフリカを通して世界を見つめる

 フーベルト・ザウパー監督の『ダーウィンの悪夢』では、アフリカ最大の湖ヴィクトリア湖で大繁殖した外来魚ナイルパーチによって変貌する地域社会を背景に、人々の過酷な生存競争が映し出される。オーストリア出身のザウパーとアフリカの関係は、前作の「Kisangani Dairy」(98)に始まる。

「ルワンダの虐殺を逃れてコンゴに来た難民を取材し、映画を作るつもりだったんです。ところが現地に行ってみると、内戦になってそこから出られなくなり、戦いを目の当たりにすることになった。アフリカへの初めての大旅行は、凄いことになってしまった。その記憶は鮮烈で、いまだにそのことを考えない日はありません。私の人生のなかでその体験がはっきりとした節目になっているのです」

 ザウパーの世界観や創作のなかで、アフリカは非常に重要な位置を占めている。

「私にとってはアフリカというのは、他の人々の人生や人間の内面、人類の将来であるとか、あるいはアウシュヴィッツであるとか、それを通していろいろなものを見ることができる透明な窓のようなものなのです。だから私が作っているのは、単にアフリカについての映画ではない。私の仕事は、アフリカを通して、もっと広いものを見せることなのです」

 『ダーウィンの悪夢』の舞台は、ほとんどヴィクトリア湖畔の地域に限定されているが、映画からははるかに広い世界が見えてくる。それはたとえば、在来魚を駆逐していくナイルパーチと加工された魚を運ぶ輸送機のイメージから広がっていく世界だ。一説には、ナイルパーチは、60年代にウガンダの漁業を改善するために雇われたイギリス人が放流したといわれる。70年代には、タンザニアとオランダの政府が協力して、トロール船を建造し、湖の生態系や自然の回復力をまったく調査することもなく、一日に60トンのシクリッド(在来魚)を加工できる魚粉工場を建設する計画を立てた。そしていま、シクリッドはナイルパーチに変わり、トロール船は輸送機に変わり、その輸送機は一回に55トンもの魚を現実に運んでいる。加工された魚はヨーロッパや日本に送られ、地元の貧しい人々は、残ったあらを食べて、飢えを凌ぐ。

「いま挙げられた背景はほんとにその通りだと思いますし、ナイルパーチと輸送機は、まさしく南北の格差とグローバリゼーションを象徴していると思います。私がやるべきことは、観客が映画のなかに象徴を見出したり、多様な解釈ができるような鍵を差し出すことです。たとえば、加工工場の場面には、「あなたは巨大なシステムの一部」という言葉(壁のカレンダーの標語)がありますが、あの時点であの場面に出てくるから、その意味が深くなる。(積荷が重すぎて)墜落した輸送機の残骸も、ある位置からは丸い形にしか見えませんが、別の位置から撮れば、魚のあらのように見え、意味を持つことになる。この映画のラッシュは200時間もありました。それを2時間にまとめるには、99%捨てなければならないわけです。だから編集の際には、いろいろな意味を考えながら再構成していきました」


◆プロフィール◆

フーベルト・ザウパー
1966年7月25日、オーストリア・アルプスのチロルの村に生まれる。イギリス、イタリア、アメリカ合衆国で暮らし、ここ10年はフランス在住。ウィーンとパリの大学で映画制作を学ぶ。現在は、映画制作活動のほか、ヨーロッパやアメリカで映画を教えている。映画制作は劇場用ドキュメンタリー、テレビ用ドキュメンタリーのほか、フィクションの制作も行っている。前作「KISANGANI DIARY」が世界で高い評価を受け、その制作中に本作のアイデアが浮かんだという。「KISANGANI DIARY」の好評を受けて世界中の映画祭で上映された『ダーウィンの悪夢』は、さらに多数の国際的な映画賞を獲得する結果となった。
(『ダーウィンの悪夢』プレスより引用)

 

 


 この映画では、輸送機が、魚だけではなく武器を運んでいるという疑惑が浮上する。ザウパーは、その乗組員たちの生活にも入り込み、何度となく積荷のことを尋ねるが、彼が求めているのは決してその真相だけではない。真相を明らかにするだけなら、方法は他にもあるはずだ。重要なのは、ザウパーの問いかけに対して、「自分は航空士でしかない」、「自分は通信士でしかない」と言葉を濁す彼らの姿だろう。そこからは、生き残っていくために、巨大なシステムの一部となるしかない状況が見えてくる。それは、われわれにとっても他人事ではない。グローバリゼーションと自分の関係を問われたら、最後には誰もが同じように答えざるをえなくなることだろう。

「そういう考え方をしてもらえることは、私にとってとても大きな喜びです。というのも、この映画はまさにそういうことを言おうとしていると思うからです。たとえば、この映画に対して、「武器を輸送しているというけれど、カラシニコフがひとつも映っていない、証拠はどこにあるんですか?」というように言われてしまうと、非常に限定的な見方をされていることになり、私はひどく戸惑ってしまう。そうじゃなくて、もっと広い見方をしてほしい。私はこの映画では、コミュニケーションがとても大切だと思っている。この映画は、本来の土壌でないと育たない植物のようにデリケートなものであって、センセーショナルにとらえられたり、意図を曲げられると、すぐに崩れてしまうのです」

 この映画では、地元の人々の精神的な支えになるはずの信仰までもが、キリスト教の怪しげな伝道師によって支配されているように見える。それは、現実を変える可能性を持ったポスト・コロニアル的な動きまでもが摘み取られていくことを暗に物語っている。

「アフリカからポスト・コロニアル的な動きが広がることを希望したいところですが、現実的には植民地主義が終わったとは思えません。むしろ産業という形を通してもっと強くなっていると思うし、キリスト教やイスラム教の広がりというのも、ひとつの植民地主義の表れであり、恐ろしいことだと思います。映画に出てくるあの伝道師を叫ばせているのは、信仰ではなく、ビジネス的な発想なのです。大きな声で叫べば叫ぶほど、信者が増えて、お金が集まり、教会が潤い、車が買えたりする。本人が、教会や映写機はビジネスの道具だと言っているのです。あの町では、キリスト教の人間がマイクを使って叫んでいると、その二軒先ではイスラム教の人間が叫んでいて、それに反応した犬もウォーと唸り出す。みんなでコンサートをしているような感じなんですが、それもまた誰が一番大きな声で叫べるのか、誰が生き残れるのかというダーウィン主義の象徴のようでした」

《参照文献》
『ダーウィンの箱庭 ヴィクトリア湖』●
ティス・ゴールドシュミット 丸武志訳(草思社、1999年)

(upload:2007/11/11)
 
 
《関連リンク》
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