アンドレイ・ネクラーソフ・インタビュー
Interview with Andrei Nekrasov


2007年
暗殺・リトビネンコ事件/Rebellion : The Litvinenko Case――2007年/ロシア/カラー/110分/ドルビーデジタルSR
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(初出:「キネマ旬報」2008年1月下旬号)

将来に対する希望を見出せないロシアの現状
――『暗殺・リトビネンコ事件』(2007)

■■リトビネンコが殺され、残した言葉の重要性■■

 2006年11月、イギリスに亡命中の元FSB(ロシア連邦保安庁)中佐リトビネンコが暗殺された。彼は、チェチェン戦争の裏にあるFSBとプーチン政権の政略を告発していた。アンドレイ・ネクラーソフ監督のドキュメンタリー『暗殺・リトビネンコ事件』では、生前のリトビネンコや関係者たちの証言、膨大なニュース映像などを通して、世界を震撼させた事件の背景が明らかにされていく。

 この映画でまず印象に残るのは、内と外から現代ロシアを検証するような独特の視点だ。1958年生まれのネクラーソフは、ソ連の抑圧的な社会のなかで成長してきた。しかし85年には、亡命したタルコフスキーの『サクリファイス』の撮影現場で、監督の助手を務めている。なぜこれほど早い時期に、海外で活動することができたのだろうか。

「私は故郷のサンクトペテルブルクにある国立の演劇・映画大学で学んでいましたが、映画でも触れたようにKGBに呼び出され、学校から放り出されました。それで別の大学に移り、そこで知り合った女性と結婚することになるのですが、彼女がドイツ人だったので西側に出ることが容易になり、タルコフスキーとも知り合えたのです。それからブリストルの大学で映画を学び、そこで最初のドキュメンタリー(TV作品)を作りました。ペレストロイカが始まって、アメリカから祖国に戻ろうとする家族を撮りました。その後は劇映画の方に進みたいと思っていたのですが、機会がなく、とりあえずテレビ局に就職し、かなりドキュメンタリーを撮りました」

 彼はどのようなきっかけでリトビネンコに関心を持つようになったのだろうか。

「90年代に入り、ソ連が崩壊したこともあって、私はロシアに拠点を移し、すでに2本の劇映画を撮っていました。リトビネンコに関心を持ったのも、最初は劇映画の題材としてでした。ジェイムズ・エルロイの『LAコンフィデンシャル』などに影響を受け、反乱を起こす警官を描けないかと。ロシアには腐敗した警官はいくらでもいますが、テレビでリトビネンコが告発するのを見て、主人公のモデルにしようと思ったわけです。その後、彼はロンドンに亡命し、私も仕事でロンドンに行く機会があり、コネを通じて彼に会うことができた。そして、彼の誠実さや情熱に魅了され、彼自身を撮ることにしたのです」

 この映画の構成や内容は、リトビネンコが暗殺されることによって、どのように変化したのだろうか。

「当初は、彼だけでなく、体制に抵抗した何人かの人たちを撮る作品を考えていました。しかし、彼が殺害されたことで、彼が遺した言葉が非常に重い意味を持つようになった。たとえば、最初の構想では、プーチンの不正を告発する部分などは、証拠が十分ではないので使うのは難しいと思っていましたが、彼が死んだ後で考え直しました」

■■エリツィン時代とプーチン時代の格差■■

 だが、ネクラーソフが関心を持っているのは、事件とその背景だけではない。彼は、帝政時代に政治犯を収容し、いまは記念館となっている施設を訪れ、KGBの歴史にも目を向ける。リトビネンコの著書『ロシア 闇の戦争』の監訳者まえがきには、「帝政を倒したソヴィエト政権は反革命運動の弾圧のために、秘密警察を温存した」とある。そして、ソ連が崩壊し、KGBが分割解体されても、秘密警察は名称を変えて生き残っていく。


◆プロフィール◆
アンドレイ・ネクラーソフ
1958年生まれ。サンクトペテルブルク国立演繹・映画研究院に入学。その後パリ大学で言語学と哲学を専攻。1985年『サクリファイス』の撮影現場から編集までタルコフスキー監督の助手として働く。ブリストル大学映画学科を卒業後、ドキュメンタリーやTV番組を手がけ、93年、初短編作品”Spring Lenin1958年に科学者の家庭に生まれたアンドレイ・ネクラーソフは、故郷のサンクトペテルブルクの州立演劇・映画研究院に入学するが、その後パリ大学(パリVII、VIII)で言語学と哲学の修士号をとる。1985年に、映画『サクリファイス』の撮影現場から編集の段階までタルコフスキー監督の助手として働く。それからブリストル大学映画学校(RFT)でフィルムメイキングを勉強。卒業後国際共同製作のドキュメンタリーやTVアート番組を手がける。彼の初めての短編映画“Springing Lenin”(1993年)は同年カンヌ国際映画祭批評家週間で受賞し、そして1997年に初めての長編“Love is as Strong as Death”もマンハイム映画祭でFIPRESCI賞を授けられた。2本目の長編“Lubov & Other Nightmares”(2001年)は、サンダンス映画祭のふたつの部門に出品され、世界中の映画祭で評価された。2004年にネクラーソフ監督は長編ドキュメンタリー作品“Disbelief”を完成。国際映画祭で様々な賞を受賞。アメリカやカナダなどのテレビで放送され、評論家の評価を集めた。数年にかけて撮った映像を含める『暗殺・リトビネンコ事件』は完成後間もなく第60回カンヌ国際映画祭に出品された。演劇の演出家としても活躍するほか、著書『The Next Revolution』は去年キエフでChas publishers社によって出版された。”がカンヌ国際映画祭批評家週間で受賞。97年に”Love is as Strong as Death”で長編デビュー。本作は2007年の第60回カンヌ国際映画祭に出品された。
 

 


「その通りです。帝政時代の牢獄に注目されたのは、なかなか鋭いと思います。あの施設は、帝政時代の悲惨さを象徴するプロパガンダとして使われてきた。ところが、スターリンの時代も何も変わっていなかった。この映画にはFSBのホームページが出てきますが、その歴史を遡ると、ナチス・ドイツのヒムラーと同じようなことをやっていた人々が、KGBのさらに前身の組織の長官として名前を連ねている。FSBはいま、過去の政治弾圧とは関係ないような顔をして活動していますが、実際には弾圧を実行する組織がずっと存在し続けている。なのに、一般の人々が気づかないのが、不思議でなりません」

 この映画は、現代のロシアで報道の自由が著しく制限されていることも物語っている。

「私は、ロシアで野党的な立場にある「もう一つのロシア」というグループと親しく、よく議論をするのですが、そういう左翼系の人たちは、一番大事なのは社会的な平等だという。でも私は、それ以前にまず自由、特に情報の自由がなければいけないと思います。エリツィンの時代は、貧富の差が広がり、経済的には悲惨な状態にありましたが、民主的な社会を作ろうとする動きや報道の自由はありました。ところが今は、物質的には豊かになり、国民の生活レベルは上がってきましたが、精神的には非常に貧しい状態にあり、将来に対する希望がないという現実があります」

 プーチンの体制は揺るぎないものになりつつあるように見えるが、この映画がロシアで公開される可能性はあるのだろうか。

「残念ながら、近い将来にはないですね。「もう一つのロシア」などで政治活動をしている友人たちに頼んで、政治集会のなかのひとつのイベントとして上映することは可能かもしれません。でも、いまのロシアでは、野党的なグループの活動がかなりコントロールされているので、上映されることがわかったら、いろいろ妨害を受ける可能性もありますし、これはなかなか難しいことではないかと思います」

《参照/引用文献》
『ロシア闇の戦争』アレクサンドル・リトヴィネンコ●
中澤孝之監訳(光文社、2007年)

(upload:2009/02/21)
 
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