ジョン・キャメロン・ミッチェル・インタビュー
Interview with John Cameron Mitchell


2001年 東京
ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ/Hedwig and the Angry Inch――2001年/アメリカ/カラー/92分/ヴィスタ/ドルビーデジタルSDDS・DTS
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■■移動と断片の音楽■■

――先ほどあなたの父親の話が出ましたが、ベルリンでは壁をめぐってなにか印象的な体験があったのでしょうか。

「父親は米軍の司令官として西ベルリンにある大きな家に暮らしていて、私はよくそこを訪ねた。夜になると、地元のゲイ・クラブやパンク・クラブに行って、そこに集まる連中とうろつき回ったり、もっといい生活を求めて東側から逃亡してきた人間に出会ったりした。あの街はその手のドラマに満ちていていた。ゲイであれば二重生活を余儀なくされ、都市は二つに分割されている。引き裂かれた自己というものを探求するのにこれ以上ない完璧な場所に思えたんだ」

――あなたは生まれはテキサスですが、スコットランドで暮らしていたこともありますね。その時代にイギリスのグラム・ロックと接点があったのでしょうか。

「そう、十歳か十一歳のときで、七〇年代の初めだった。スコットランドで修道院といっしょになった男子校の寄宿舎で生活していた。そこでは許可なく音楽を聴くことができなかったけど、グラム・ロックのレコードを持ち込んで、人の目を盗んで聴いていた。それは逃避的な行為だったと思う」

――あなたの世界観が変わるような音楽体験の原点はグラムだったのでしょうか、それともパンクとか、他の音楽ですか。

「ひとつに限定することはできない。確かにイギリスで暮らしているときにはグラムにはまっていたけど、私はだいたい二年ごとに世界各地を転々とする生活をしていたので、自分の周りにあるどんな音楽にもオープンに接するようになった。ブルース、ジャズ、パンク、フォークなど、あらゆる異なる音楽をいつもエンジョイしていた。だから若者が自分の好きな音楽やジャンルを限定することがまったく理解できないんだ」

 


――同じ場所に長く暮らしているとどうしてもブームに流されるところがありますが、そんなふうに様々な音楽を自由に取り込んで自分の世界を作るというのは、この映画の物語に通じるものがあるように思えますが。

「その通りだと思う。少年時代のヘドウィグは、壁の向こうから洩れてくる西側の音楽や文化のいろいろな断片を素直にそのまま受け入れていた。すべての断片にはどれも等しい価値があった。どれがキッチュでどれがアートかなんて関係なかった。私もそういうふうに音楽を受け入れてきた。要するに自分にとって意味があればそれが大切なもので、重要なのはその断片から何を生み出すかだ。ヘドウィグは壁という制約の枠組みのなかで自分の音楽を作り上げていったということだ」

――『ヘドウィグ〜』の音楽への直接的な影響ということではなく、デイヴィッド・ボウイの『ロウ』や『ヒーローズ』、ルー・リードの『ベルリン』など、ベルリンとアーティストの結びつきを感じることはありますか。

「もちろんだよ。ベルリンはアーティストたちにインスピレーションをもたらし、ベスト・アルバムを生み出してきた。ボウイのドイツ語版の『ヒーローズ』、それからイギー・ポップもあそこでベスト・アルバムを作った。その結びつきは強く感じるよ」

――『ヘドウィグ〜』は音楽映画ですが、アニメーションの使い方やパフォーマンスのとらえ方など、MTV以後に表層化してしまった音楽を、徹底して肉体の運動として描こうとしているように思えますが。

「MTVでは音楽がいかにクリシェによって表現されているのかわかり切っているので、私たちはMTVの要素が入り込まないように細心の注意を払って映画を作った。私たちは音楽を違うかたちで体験し、バンド、パフォーマンス、肉体の運動を信じている。スタジオを中心に活動するアーティストには、スタジオではできても、ツアーではできないことがあるけど、私たちに違いはない。パフォーマーと聴衆のあいだの関係を取り払われても、そこに肉体があれば、それは楽器になる」

■■ポスト冷戦時代の空虚感と1インチ■■

――『ヘドウィグ〜』では、そのステージのダイナミズムと映画的なダイナミズムがともに生かされていると思うのですが、演出するうえでヒントになったものはありますか。

「私は七〇年代に作られた、舞台の伝統との結びつきを持った映画を信奉している。まず何よりも俳優なんだ。最近の特に商業化された映画では俳優の演技が軽視されているけれども、七〇年代の優れた監督たちは、彼らの映画の役者たちにもっと多くの自由を与えていた。それと七〇年代のアメリカ映画や多くの日本映画では、フレームを固定して、舞台のように登場人物たちがそこを自由に出入りできるような演出をしていた。音楽についても、曲によっては撮影中にライブで録音されていた。こうした演出は現代の映画では技術的に不可能だ。たとえば、ロバート・アルトマンはそれをやっていた。私はそういう舞台と結びついた映画の技術を思い返しながら、この映画を作った。ボブ・フォッシーの映画も私がステージと映画を結びつけるのに素晴らしい貢献をしてくれたと思う」===>3ページに続く

 
 
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